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本田宗一郎の名言を胸に。
F1に挑む日本人メカニック秘話。

posted2020/02/02 20:30

 
本田宗一郎の名言を胸に。F1に挑む日本人メカニック秘話。<Number Web> photograph by Masahiro Owari

左から新木、白幡、吉田。1、2、3の指の本数は所属するカテゴリーのF1、F2、F3の意味。

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尾張正博

尾張正博Masahiro Owari

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Masahiro Owari

「日本人は、失敗ということを恐れすぎるようである。どだい、失敗を恐れて何もしないなんて人間は、最低なのである」

 これは、ホンダの創業者である本田宗一郎が生前語っていた言葉だ。

 いまから17年前の2003年に、ひとりの日本人がイギリスへ渡った。現在、ウイリアムズでスペアパーツコーディネーターを務めている白幡勝広だ。渡英する直前まで、白幡は自動車整備の専門学校の教員を務めていた。自身の学生時代に夢だったF1のメカニックを目指す後進を育てたいと考えていたのだ。

 しかし、なかなか挑戦する生徒は現れなかった。そこで白幡は自ら行動を起こす。「学生に道しるべを作ろう」と、'03年に家族を置いて単身渡英するのである。

 しかし、すぐにF1のメカニックになれるほど世界は甘くない。まずはベルギーのF3チームのメカニックになってドイツF3へ参戦。その間に、来る日も来る日もF1チームへ履歴書を送り続けた。

「F1は全チームに送りました。募集していなくても、『私はこういう仕事ができるので、ポジションに空きがあったら連絡してください』という手紙を送り続けました。『もう送ってくるな』と言われるまではいいかなと思い、送り続けました。全部合わせたらおそらく200通以上にのぼったと思います」(白幡)

一度は届いた不合格の知らせ。

 2年後の'05年の年末、白幡に連絡を入れたのがウイリアムズだった。

「『年明け早々に面接をしたいから、すぐにイギリスに来てほしい』と言われ、元旦に日本を出発して、4日に面接を受けました」

 しかし、翌日ウイリアムズから届いたのは「不合格」の知らせ。ところが、その知らせには続きがあった。「レースチームのメカニックとしては不合格だったが、テストチームでよかったら空きがあるので、明日6日にもう一度面接に来てほしい」

 レンタカーを借り直して、翌日2度目の面接。その場で合格が言い渡された。テストチームのメカニックとしての白幡の仕事ぶりはウイリアムズ内で高く評価され、2年後の'08年からレースチームに昇格。

 以後、中嶋一貴、ニコ・ヒュルケンベルグ、ブルーノ・セナ、バルテリ・ボッタスの担当メカニックを歴任し、'18年からスペアパーツコーディネーターも兼務する、チームに欠かせない存在となった。

【次ページ】 白幡の背中を追いかけた男。

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