フランス・フットボール通信BACK NUMBER
なぜ欧州覇権はセリエからリーガに?
時代を変えた、ジダン移籍の裏話。
text by
ロベルト・ノタリアニRoberto Notarianni
photograph byFranck Nataf/L'Equpe
posted2019/08/25 20:00
ジダンはレアルで220試合以上の出場を記録。2002年にはCL制覇も果たしている。
ジダン自身の言い訳には疑問符が?
ユベントスの首脳たちは、ジダンが何度も移籍の意思を表明していたことを表に出そうとはしなかった。
最初に彼が意思を伝えたのは'99年春、次がEURO2000終了後である。
フィアットグループの領袖でもあるジャンニ・アニェリ会長は、もう2年トリノに残ってくれれば、契約が終了する2005年6月以前の移籍に反対しないと約束し、ジダンもその言葉を了承していた。
では、なぜジダンは、事態を加速化させたのか?
移籍が決まった数週間後の『フランス・フットボール』誌(2001年8月21日)のインタビューで、ジダンは次のように説明しているが、事実とは異なっていると言われている。
「バカンスに出かけるときには何の疑念もなかった。頭の中には次のシーズンもユーベでプレーするという思いしかなかった。クラブとは、あと1シーズン在籍した後に移籍することで合意していたからね。
ところがバカンスで滞在中のパペーテ(タヒチ島の首都)にアラン(・ミリアッチョ=ジダンの代理人)から連絡があって、ユベントスが熟慮の末に方針を変更したがっているという。レアルとの交渉を進めており、僕の移籍金で選手を3人獲得するつもりだということだった。
ユーベはひとつのサイクルを終わらせたがっていた。彼らはプラティニを5年間保有した。デシャンも在籍は5年だった。僕も5年目が終わったところだったんだ!」
プラティニの退団とは背景が異なる。
だがプラティニに関していえば、ユーベ退団と同時に現役を引退したのは、肉体的に限界を感じたプラティニ自身の意向だった。彼の熱烈なサポーターであったアニェリには、自分からプラティニを手放す気はまったくなかったし、強力なオーラを放ちながらアニェリ家と深い絆を築いていたプラティニを、誰もトリノから追放することなどできなかった。
プラティニのスピリットはトリノの街のいたるところに息づいていた。それはユベントスに足を踏み入れた瞬間にジダン自身が感じたことであり、以来、常にプラティニと比較され続けたのだった。
「ジダンは(見て)楽しませる選手であって、(クラブの栄光の蓄積に)役立つタイプではない」という思い込みがいつの間に、またいったい誰によってアニェリの頭の中に刷り込まれたのか?
それはジダンのチームへの影響力のことを言っているのか。
それとも獲得したトロフィーの少なさ――2度のスクデットこそ勝ち取ったものの、敗北に終わったふたつのCL決勝('97年と'98年)を指しているのか。
そして何よりも、選手としてのキャリアにおける決断で、家族の占める位置が大きいとジダンがアニェリに説明した私的な会話が、どうして公になってしまったのか……。