甲子園の風BACK NUMBER
高校野球史上最高の投手なのか……。
佐々木朗希を江川卓と比較してみた。
text by
太田俊明Toshiaki Ota
photograph by(L)Kyodo News/(R)Asami Enomoto
posted2019/08/15 11:50
写真左は、1973年の夏の甲子園。対銚子商戦での江川卓の投球フォーム。右は岩手県大会での佐々木朗希。
投球で圧倒しながら結局敗戦。
そこから中1日、準決勝で対戦した古豪・広島商業は、甲子園登板4試合目となる江川を更に疲弊させる以外に点を取ることは不可能と割り切り、打者全員がホームベース寄りいっぱいに立って内角球を投げにくくした上で、「1人5球は粘れ」とバットを極端に短くもってファウルを打ち、球数を投げさせる作戦に出た。
この徹底した待球作戦で、5回までに104球を投げさせられた江川は、5回にテキサスヒットで140イニングぶりの失点を喫し、8回にも意表を突く三盗に焦った味方捕手の悪送球で1失点。結局、8回2安打11奪三振と相手を圧倒しながら、1対2で敗戦を喫した。
この選抜4試合での奪三振60は、それから46年たったいまも大会最多記録として残っている。まさに江川による歴史的な快投が繰り広げられた選抜だった。
球が一番速かったのは高校1年秋から3年春まで。
作新学院時代から江川をずっと見てきた人たち、そして江川自身も、高校1年秋から3年春の選抜くらいまでが、その後の大学、プロ野球時代を通じて最も速かったと口を揃える。
江川の高校時代には、まだスピードガンはなく、巨人に入団してから計測された最速は151キロである。高校時代の江川は、150キロ後半のスピードがあったと言えるだろう。そして、その数字以上に、回転数の多いボールはホップし、バッターの手元で伸びるように見えた。
選抜の快投で国民的スターになった江川には、全国各地の強豪校から招待試合の要望が殺到し、週末は遠征が続いた。球場に着けば、どこも人の波である。詰めかけた観客も、対戦相手のチームも、目当ては江川だ。
土曜日に完投し、日曜日に顔見せのリリーフ登板という強行日程が続き、江川は疲弊した。そして、もともと練習嫌いだった江川は、この時期、走り込みなどの基礎体力の養成を怠った。
3年夏の栃木県予選で、江川は再び快投を演じる。
2回戦から決勝戦までの5試合でわずか2安打しか許さず、全試合を完封(3試合がノーヒットノーラン)、75の三振を奪って甲子園に出場するのだが、甲子園の2回戦で対戦して、延長押し出しで江川を破った関東のライバル銚子商業の斉藤一之監督は、この試合中の投球を見て「本調子ではない。肩を痛めたか」と思ったという。