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釜石にラグビーW杯がやってくる!
震災から8年、1万人が集まった。
text by
近藤篤Atsushi Kondo
photograph byAtsushi Kondo
posted2019/08/09 11:40
釜石鵜住居復興スタジアムで初めて行われた日本代表戦(フィジー戦)には1万3000人の観客が押し寄せた。
学校の跡地に建てられたスタジアム。
でも今から8年前、ここには全く違う光景が広がっていた。
2011年の6月だった。東日本大震災から3カ月経ったその週、僕は三陸地区でサッカーボールを蹴り始めた少年たちの取材をしていた。山田町、大槌町、釜石、津波に襲われた地区の惨状はどこも同じだった。
津波の力によって打ち砕かれたビル、見渡す限り続く瓦礫。鵜住居も三陸地域で壊滅的な被害を被った地区の一つだった。三陸鉄道の線路は高熱で溶けたプラスチックのようにねじ曲がり、駅舎も、その周辺にあった住宅も、全ては津波によって打ち砕かれていた。
その駅舎の後方、釜石鵜住居復興スタジアムが今ある場所には、かつて釜石市立釜石東中学校と鵜住居小学校があった。
地震が起こった直後、普段から防災訓練に力を入れていた釜石東中学校の生徒たちは自主的に避難を始め、彼らは隣接する鵜住居小学校の生徒たちの手を引いて裏山を一気に駆け上った。その迅速な行動により、ほぼ全員の少年と少女が生き延びることができた。しかし一方で、鵜住居地区全体の死者、行方不明者数は583名にも達した。
奇跡と悲劇。破壊され尽くした風景の中に立ち、僕は混乱した意識の中、この場所の未来、生き延びた人々の未来についてなんとか考えようとしたが、もちろん何も思いつかなかった。未来など想像できないどころか、目の前にある現実の世界でさえうまく理解できなかった。
「なぜここでワールドカップを?」
スタジアムを見学したその夜、同じ鵜住居地区根浜海岸にある旅館、宝来館の女将である岩崎昭子さんに話を聞いた。
ラグビーのことはかつて新日鉄釜石がV7を達成した頃からずっとファンだ。彼女の旅館も震災時は津波に襲われ、ほぼ全てを失った。それでも、女将にとっては、復興のためにもワールドカップの招致を、というアイデアがとても大切なものに思えた。学校とは、地域の人間の思い出がたくさん詰まっている場所。だからこそ、そこにまたたくさんの人が集まる場所を作ってほしかった。
もちろん震災からまだ間もない被災地で、こんな時にラグビーの話かよ、という反対の声も少なからずあった。
女将はひとりの男性の話をする。
「当時鵜住居小学校で事務員さんをされていた女性がいたのですが、その女性はあの日最後まで学校に残って逃げ遅れてしまったんです。その方のご主人がある日やってこられて、なぜ女将たちはここでワールドカップの試合をやりたいんだ? と尋ねられました」
女将はラグビーを通じてできるかもしれないこと、こうなればいいなと願っていることを彼に伝えた。
賛成はできないけれど、でも反対はしない。男性はそう返事してくれた。
それから数年後、新スタジアムの敷地内に建てられた黒御影石のモニュメントには、最愛の人に向けたその男性の思いが7つの文字で刻まれている。
「あなたも逃げて」