プロ野球亭日乗BACK NUMBER
パ・リーグ「伝説の10・19」と
南海、阪急「身売り」の舞台裏。
posted2019/07/21 11:30
text by
鷲田康Yasushi Washida
photograph by
Shinchosha
川崎球場には思い出がある。
スポーツ新聞社に入社して2、3年目の1980年代半ばだった。日本シリーズの真っ最中にロッテ対阪急の消化試合の取材に行ったことがあった。
狭く薄暗い記者室。審判控室はなぜか畳張りで選手のロッカーも質素なものだった。
球場裏の売店の名物はラーメンで「あそこは川崎市が夫に先立たれた未亡人を救済するために働かせているんだ」と先輩記者から聞かされたが事実は分からない。
その「未亡人ラーメン」もさすがにこの日は閑散とし、スタンドを見上げると、当然のように観客はいない。試合直前に阪急の上田利治監督がベンチ前で「何人おるんや?」と数えたら25人だった。
「なんや25人やったらベンチに入れるやないか。ベンチにいれたろか」
そんなジョークを言いながら淡々と試合は行われた。ロッテが勝ったのか、阪急が勝ったのか。勝敗の記憶は定かではないが、とにかくあのとき、日本中のプロ野球ファンから置き去りにされたような川崎球場の光景だけが鉄の塊のように心の奥底に沈殿している。
隣のマンションの屋上にも人が溢れた。
その川崎球場が満員札止めとなり、隣のマンションの屋上にも人が溢れたのが、1988年の10月19日だった。
仰木彬監督率いる近鉄が西武のリーグ4連覇阻止に向けてロッテとダブルヘッダーで激突したいわゆる「10・19」である。
本書『1988年のパ・リーグ』(新潮社刊)はこの「10・19」を縦糸にこの年、起こった2つの球団身売りの裏側を丹念に追いかけたドキュメントである。
南海からダイエー、阪急からオリックスという2つの球団売却がなぜ同じ年に次々と行われたのか? もちろん2つの身売りが全く無関係で進行したわけではない。南海の球団売却がなければ、阪急の身売りもなかった。2つの身売り劇は密接に絡み合いながら深く静かに進行していった。そうしてその背景には「10・19」の一方の主役であるロッテの存在もあったのである。