“ユース教授”のサッカージャーナルBACK NUMBER
ドリブラー少年は黒子に徹していた。
川崎DF登里が口にした結果への執着。
posted2019/04/26 17:30
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph by
Takahito Ando
登里享平は落ち着いている――。
プロ生活11年目に突入する選手の凄みと言うべきか。
技巧派が集まり、高い質の戦術を用いる川崎フロンターレにおいて、10年以上も一線級で活躍できる深みというべきか。
今年の登里のプレーは安心して見ていられる。
以前は、どちらかというと派手なプレーヤーだった。だが、2009年に香川西高校から川崎に加入して、プロサッカー選手としての年月を積み上げていくうちに、彼のプレーからは波が消え、安心してピッチに送り出せる「計算できる選手」となった印象を受ける。
ドリブラーとして鳴らした高校時代。
高校時代の彼はゴリゴリのドリブラーだった。
左サイドでボールを持ったら、とにかく仕掛けることを第一に考え、相手の懐に迷いなく飛び込み、抉りこむようにドリブルでDFラインを切り裂くプレースタイル。まさに獰猛な牙だった。
裏を返せば、今の彼は尖った牙を失くしてしまったのかもしれない。
いや、失くしたのではなく、新たな牙が生え、それが鋭さを増しているというべきだろう。川崎というチームで生き残っていくためには、いつまでも獰猛な牙に頼っていてはダメだったのだ。
「僕にはずっとこだわりがあった。例えば1対1の場面では、自分の間合いでガンガン勝負していくし、そういうプレーを目指していた。でも、フリーな状態でボールを受けないと『自分の形』が出せず、結局それをするためにサイドに張ってしまうことが多かった。そうなると簡単に相手に読まれるし、失敗する度に仲間からの信頼を失ってしまう。自分のプレースタイルの限界を感じていた」
だが、'11年に相馬直樹監督(現・町田ゼルビア監督)が就任すると、翌'12年に左利きだったことと突破力を買われて、サイドバックにコンバートされた。
「サイドバックなんてやったことなかった。でも左利きのサイドバックは必ず需要がある、そこで自分の活路を見出そうと思った」
必死に模索した結果、彼が選んだのは守備力とバランス感覚、そしてポゼッションへの参加という、フォア・ザ・チームのプレーだった。