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栗山監督に手渡した1枚の記事。
日本ハム元オーナーが残したもの。 

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高山通史

高山通史Michifumi Takayama

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photograph byMichifumi Takayama

posted2019/04/26 11:00

栗山監督に手渡した1枚の記事。日本ハム元オーナーが残したもの。<Number Web> photograph by Michifumi Takayama

今年3月に球団取締役を退任した2代目オーナー大社氏(中央)を囲んで選手、スタッフが集まり、札幌ドームでセレモニーが行われた。

ときには意見がぶつかることも。

 大社さんと、前沢賢事業統轄本部長――。

 前沢本部長は、新球場建設を推進する実務部門のトップの1人である。大社さんは、北海道日本ハムファイターズ誕生2年目の2005年からオーナー職へと就いた。その軌道に乗るまでの辛苦の時間を共有した。1度、他球団などへと籍を移したが、ファイターズへと戻り、大社さんと人生が再び交わったのである。

 前沢本部長は、語る。

「一言で言えば、懐が深い。誰に対しても目線を下げて話してくれ、話を聞いてくれる。難しいことは言わないけれど、何を話すにしても論理的でした」

 ファイターズから離れていた期間も時折、連絡をもらって旧交を温めていた。食事をして、ゴルフをしながら、ひと回り以上も年の離れた前沢本部長と付き合いを続け、意見をぶつけ合ってきた。若き日の前沢本部長の言動が、大社さんの逆鱗に触れたこともあったが、常に同志として分かり合っていた。

 前沢本部長は「教科書でした」と、感謝した。

田中賢が教わったこと。

 大社さんと、田中賢介選手――。

 選手の中では、生え抜きでもあり、また選手会長としても大社さんと向き合う時間は多かった。

 田中賢選手は、振り返る。

「プロ野球選手は『野球をしていればいい』みたいな考えの方ではなかったです。プロ野球、選手たちが日本とか、北海道に与える影響、スポーツが果たす役割を重視していました。選手が、もっと社会に、地域に貢献して、ファイターズを認めてもらう――。そんな捉え方を教えてもらいました」

 さらに、思い出す。

「こちらの話のレベルにも合わせてくれて。聡明ですけれど、意外に体育会系で、いろいろと理解もしてもらいました」

 4月23日、大社さんの挨拶――。

「背番号『101』というと、創業オーナーに1つ超えると、一言、二言、言われそう」

 そう、恐縮していた。

 大社さんがオーナーに就任した2005年、GM補佐で招聘されたのが吉村GMである。皆の胸中を代弁し「101」に、メッセージを入魂した。

 大きな節目を迎え、平成も終わる。

 北海道日本ハムファイターズの背番号「101」は未来へと向かう不変の根幹であり、一人ひとりの約束である。

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