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平成日本サッカーの夜明け(2)
世界ベスト8に輝いた16歳の中田英寿。
text by
戸塚啓Kei Totsuka
photograph byAFLO
posted2019/04/28 10:30
1993年、U-17世界選手権での中田英寿。日本開催の大会で見せた運営力・競技力が2002年のW杯招致につながった。
15歳の選手は、高校受験と重なる。
スタートは前途多難を思わせた。'92年(平成4年)5月にU-16アジアユース1次予選に出場したが、中国に1-3、北朝鮮に1-4で敗れてしまうのである。中国は予選を突破して本大会に出場する実力国だが、厳しい現実を突き付けられた。
韓国には1-1で引き分けたものの、彼らはU-17よりU-20世代の強化に力点を置く。韓国も中国と北朝鮮に負けていたから、引き分けも喜べるものではなかった。
その後も国内での強化合宿を重ねていくが、スタッフが思い描くような成長曲線を描いていかない。15歳の選手は高校受験のために、サッカーに割ける時間が限られてしまう。16歳の選手は高校やユースで最少学年のため、試合出場の機会が限られる。17歳以下の年代特有の難題が、チームの強化に立ちはだかっていた。
中田、松田、宮本がひしめいていた。
チームの骨格が固まったのは、'93年4月のドイツ遠征、同5月のフランス遠征だった。ドイツではクラブチームと、フランスでは本大会出場国のアメリカらと試合を重ね、チームも個人もレベルアップがはかられた。短期的な成長の歩幅が広いのは、育成年代の特徴である。
8月の本大会ではガーナに初戦で敗れ、イタリアとの第2戦は0-0で引き分ける。決勝トーナメントへの進出には勝利が条件となるメキシコとの第3戦は、船越優蔵と松田直樹のゴールで2-1の勝利を飾った。
ナイジェリアとの準々決勝では、前半開始直後と終了間際に失点するものの、後半に中田英寿がゴールを決める。1-2で競り負けたが、優勝したナイジェリアに食い下がった。グループリーグで敗れたガーナも準優勝であり、アジア勢唯一の8強入りは評価に値する。
FIFA主催の世界大会でのベスト入りは、男女を通じて初めてだった。大会の運営能力だけでなく競技力においても、世界にアピールすることができたのだった。
'93年8月に大会を迎えるまでおよそ2年半で、合宿や遠征は16回を数えた。招集された選手は80人を超える。
本大会にメンバー入りした18人から中田、松田、宮本恒靖、戸田和幸の4人がワールドカップ・プレーヤーとなり、財前宣之や鈴木和裕、佐伯直哉や船越らはJリーガーとして複数クラブに足跡を記した。ヴィッセル神戸の監督に就任したばかりの吉田孝行も、今大会のメンバーのひとりだ。