サッカー日本代表PRESSBACK NUMBER
平成日本サッカーの夜明け(3)
1995年のワールドユースが変えた物。
posted2019/04/29 10:30
text by
戸塚啓Kei Totsuka
photograph by
AFLO
1993年(平成5年)の“ドーハの悲劇”から2カ月後、U-18日本代表が立ち上げられた。
監督の田中孝司は'92年(平成4年)のアジアユース3位や“ドーハの悲劇”を発奮材料とし、さらには'93年のU-17世界選手権でのベスト8入りも踏まえ、「日本サッカーの歴史を変えよう」とのキャッチフレーズを打ち出す。
爆発的なブームとなっているJリーグ人気を一過性としないためにも、次代を担う若年層から結果を残していくことを目ざしたのだった。
田中のそばには頼もしい人材がいた。山本昌邦である。
'92年のアジアユースに出場した西野朗のチームでも、山本はコーチを務めていた。惜しくも出場を逃した'93年のワールドユース(現在のU-20ワールドカップ)を現地で視察し、世界基準の技術や戦術を学んでもいた。
同年10月のアメリカ・ワールドカップアジア最終予選では、ハンス・オフト監督のスタッフとしてチームに同行した。アジアの“いま”を知る人材として、山本にまさる人材はいなかった。
事前合宿という方法もこの時できた。
'94年(平成6年)から本格的に強化を進めたチームは、イタリアやアメリカへの遠征を経て5月の1次予選を突破し、7月にはインドネシアへ遠征する。強豪国でもない同地を訪れる理由を、田中は「9月の最終予選を前に、現地の気候や風土に慣れておくため」と説明した。
事前合宿や暑熱対策といった準備が強化のスタンダードとなり、コーチングスタッフが増員されたのもこの頃からである。
9月の最終予選は、黒星スタートとなる。タイに0-2で敗れたのだ。しかし、バーレーン、クウェート、韓国に3連勝し、グループ1位で準決勝に臨む。
ワールドユースは'95年も16カ国開催で、アジアの出場枠は「2」である。準決勝をくぐり抜けなければ、世界の舞台に立つことはできない。
イラクとの準決勝は3-0で快勝した。安永聡太郎が先制点をあげ、大木勉がさらに2点をマークした。開催国として出場した'79年以来のワールドユースに、日本は史上初めてアジア予選を突破して辿り着いたのである。