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平成日本サッカーの夜明け(1)
1992年の西野朗と韓国の高い壁。

posted2019/04/27 10:30

 
平成日本サッカーの夜明け(1)1992年の西野朗と韓国の高い壁。<Number Web> photograph by AFLO

アトランタ五輪出場権を獲得したサウジアラビア戦の川口能活。彼らの強化は1992年ユース代表から始まっていた。

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戸塚啓

戸塚啓Kei Totsuka

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 平成という時代の日本サッカーを語るときに、誰もが起点と考えるのは1993年(平成5年)だろう。5月のJリーグ開幕と10月の“ドーハの悲劇”が、とてつもないターニングポイントとなったのは間違いない。

 プロリーグの誕生によって選手がレベルアップし、'97年(平成9年)の“ジョホールバルの歓喜”や翌'98年のW杯初出場へとつながった。五輪やW杯の舞台が現実的な目標となることで、子どもたちの夢が膨らんでいった。才能豊かなタレントが、絶え間なく出現するようになった。

 しかし、日本サッカーの夜明けは、実はもう少し前なのである。

 それまで我々の前に高くそびえたっていたアジアの壁を突き破る嚆矢は、'92年(平成4年)にひっそりと活動した日本ユース代表に見ることができる。

 現在ならU-19日本代表と表記されるユース代表は、'92年2月に立ち上げられた。当初は永井良和がチームを率いていたが、3月末の任期切れで退任した。

 わずか1カ月で任期満了というのも奇妙に映るが、これが予定どおりの人事なのである。後任にはコーチから昇格した西野朗が就くのだが、5月にはアジアユース1次予選が控えていた。'93年3月開催のワールドユース世界選手権の予選である。のちにU-20ワールドカップと呼ばれる世界大会の予選直前に、監督が交代する。2019年のいまなら、まず起こり得ない人事だ。

アジアの頂点ははるかな高みだった。

 23歳以下のチームが戦った'92年1月のバルセロナ五輪アジア最終予選で、日本は6カ国中5位に終わっていた。もう少し時間をさかのぼると、'90年(平成2年)のアジア大会で日本代表がベスト8にとどまっていた。

 カズこと三浦知良とラモス瑠偉が初めて代表入りしたが、サウジアラビアとイランにさしたる抵抗もできずに敗れた。アジアの頂点は、年代を問わずにはるけき道のりだったのである。

 アジアユース1次予選は、韓国、中国との同グループだった。開催地はソウルである。23歳以下のチームが敗れていた両国との対戦を前に、あるサッカー専門誌は「1次予選直前の監督交代で若干の不安は残るが、新しい監督とコーチの手腕に期待するしかない」と書いた。

 4月に37歳の誕生日を迎えた西野は、クラブチームを含めても初めての監督だ。コーチに指名された山本昌邦も、34歳の若さである。若いふたりの情熱に、ユース代表の未来は託された。

【次ページ】 情報が漏れてでも韓国遠征を強行。

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