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今もリングを目指す辰吉丈一郎。
あしたのジョーは、もういない。
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph byTakuya Sugiyama
posted2019/04/29 10:00
辰吉丈一郎は今もジム通いを続けている。すべてをボクシングのために。今もそんな人生を歩んでいるのだ。
ボクシングは人生そのものだった。
何度か通う中で、町野は辰吉に生い立ちを聞いた。岡山の児島という小さな町で男手ひとつで育てられ、名前は父が好きだったボクシング漫画の主人公・矢吹丈からとった。幼い頃から庭に父が吊るしたサンドバッグを叩いていたという。
中学を出て、大阪にきてからはかまぼこ屋、そば屋で働いたが続かず、ジムも飛び出してホームレス同然の時期があった。自販機の釣り銭口を漁り、冬でも公園の水道水で体を洗ったという。
昭和が終わり、平成がくる。ボクシングの在り方そのものが変わろうとしている時代に、まるで「あしたのジョー」から飛び出してきたような青年が、目の前に現れたのだ。辰吉はほぼ漢字を知らなかったが、町野が記事掲載のために名を書けと言うと、自分と父の「粂二」という字だけはきちんと書いた。そういうところに惹かれた。
定年を迎えた町野は、今の辰吉を見ると昔、聞いた話を思い出すという。
「小さい頃、辰吉がいじめられて泣いて帰ると、父親にいつも言われたらしいです。負けるのはええ。でも負けを認めるな、と。今もグローブを外さないのは、だからなのかな……」
つまり、彼のボクシングは人生そのものだった。あの時代、自分も、世の人々も、辰吉のリングにあれほど熱狂したのはそのためだったのではないかと考えている。
月に200人の若者が入門してきた。
1991年9月19日。まだ不良少年の面影を残した21歳の辰吉は、WBC世界バンタム級タイトルマッチで、アマも含め300戦のキャリアを誇るアメリカの王者グレッグ・リチャードソンに挑みかかり、10ラウンド、相手の体ごとロープを突き破らんばかりのラッシュでTKO勝ち。当時の国内史上最短8戦目で世界王者となった。
池原信遂はその試合を富山県入善町の自宅で見た。自分の中で、人生が決まったという感覚があった。
「ヤンキーみたいな人が前に前に出て、倒して、第一声が『父ちゃん、やったで』でしたから……。衝撃でした。僕は喧嘩もしたことのない普通の子供でしたが、とにかく、その瞬間からボクシングをやる。世界チャンピオンになると決めた。不思議と、できるんちがうかなと思えたんです」
人を殴ったこともない少年に拳を握らせ、リングへ向かわせる。ブラウン管のむこうのボクサーには、そういう力があった。
高校卒業と同時に、大阪帝拳の門を叩いた。当時、ジムには「辰吉丈一郎」になりたいという若者が列をつくり、月に200人が入門してきた。眉を剃り上げ、喧嘩で鳴らしたそれぞれの町の番長たちの中で、前髪をそろえた色白の池原は異色だった。
「見た目で、舐められていたと思いますよ。でも、僕は辰吉さんみたいに、王者になれると確信していましたから。スパーリングしてもそういう奴らに負けませんでした」