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今もリングを目指す辰吉丈一郎。
あしたのジョーは、もういない。
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph byTakuya Sugiyama
posted2019/04/29 10:00
辰吉丈一郎は今もジム通いを続けている。すべてをボクシングのために。今もそんな人生を歩んでいるのだ。
井上尚弥と辰吉丈一郎をつなぐもの。
ボクサーがアスリートとして括られ、大衆が人生物語より競技性を嗜好していく現代において、井上尚弥は無敗のまま3階級を制覇し、世界のリングに求められる存在になった。そのボクシングはかつて、父・真吾が惹きつけられた、あの時代の、辰吉のものとは一見、正反対にも映る。
ただ、開始のゴングからわずか数秒のうちに起こる戦慄のKOシーンをよく見ると、そこには必ず、あの日、あの公園で始めたステップワークが潜んでいる。
相手をリングに沈め、拳を突き上げる尚弥の横には、いつも父がいる。
「尚弥はよく天才と言われますが、簡単にそう言ってほしくない。6歳の頃からずっと地道に、努力し続けてきているんですから。僕はそれを全て見てきていますから」
目を凝らすと、辰吉が父にもらった“ノーガード”と同じものが見えてくる。
つまり、怪物と称される25歳のボクシングもまた、彼の人生そのものなのだ。
時代の中にぽつん、ぽつんとあるワンシーンが2人のボクサーをつないでいる。
辰吉はそれを知らない。自分だけのスタイルで、生きた歳月をかけてリングに上がる。そうやって、あの時代に表現したものが、今もリングの上に散らばっていることなど知るよしもなく、走り続けている。
日に3度、トランクス1枚になって天秤ばかりの上に乗る。その肉体にみずみずしさは感じられないが、筋肉は白髪とアンバランスに力強く隆起している。秤のメモリはきっかり、55kgで止まった。
「減量すればいつでもバンタム(53.5kg)で戦えるように節制はしている。飯は1回、晩に食べるだけ。常に腹は減っています」
「過ぎたことは遠い昔や」
物語の中でジョーが、現実の世界で自分が戦った「バンタム」という戦場に今もいる。その事実が何よりも雄弁に、辰吉がボクサーであることを証明している。
練習を終えると、元王者はスーパーのビニール袋にウェアをつめて帰路につく。
見る者には哀しい景色に映るかもしれない。ただ、本人は独り、恍惚の中にいる。
「過ぎたことは遠い昔や、という感覚です」
彼を哀しく見る者はおそらく過去に囚われている。あらゆるものを削って、ボクサーである今を選ぶ。この尊厳を、この幸せを笑う資格が誰にあるだろうか。
辰吉丈一郎。48歳。ボクサー。朝が来れば、また走りに出る。
(Number968・969号『あしたのジョーは、もういない。』より)