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今もリングを目指す辰吉丈一郎。
あしたのジョーは、もういない。
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph byTakuya Sugiyama
posted2019/04/29 10:00
辰吉丈一郎は今もジム通いを続けている。すべてをボクシングのために。今もそんな人生を歩んでいるのだ。
「あしたのジョー」の最後が好き。
辰吉は「あしたのジョー」のラストシーンが好きだという。
「ジョーが最後、寝とるんか、死んどるんか……。やっぱ、あそこかな」
それは真っ白に燃え尽きたボクサーの最期だ。もし物語であれば、立ったまま失神したあの瞬間、辰吉だって灰になれたかもしれない。それで終わりだ。だが、現実はそうはいかない。そこから膨大な人生が待ち受けている。その長すぎる時間が、ボクサーとして死ぬということを難しくする。
辰吉がサンドバッグを叩く。白髪まじりの長い後ろ髪が揺れる。天才と称された左ボディブローの角度はあの頃のままだが、天井から吊るされた漆黒の革袋はそれほど揺れない。その光景から世界戦のリングを想像することはできなかった。それでも辰吉は休みなくパンチを打ち続ける。
そこに、あしたのジョーはいない。喝采がなくなっても、なおリングを求めるひとりのボクサーがいるだけである。
井上尚弥が父に教えられたこと。
辰吉が最後に世界戦を戦った同じ年、まだ冬が到来する前の穏やかな日だった。
塗装業を営むある男は、娘と2人の息子を近くの公園へ連れていった。いつものように子供達が遊ぶのを横目にシャドーを始めた。プロは諦めたが、ボクサーであることは続けていた。
ただ、この日はなぜか、長男がそばを離れようとしなかった。大好きなブランコには見向きもせず、父をじっと見つめて、こう言ったのだ。僕も父さんと一緒に、ボクシングをやりたい――。
それが井上真吾と尚弥にとっての運命の瞬間だった。
「僕はあの時、尚弥の目を見たんです。真剣なのか、どれほどの気持ちなのかがわかりました。だから自分も絶対に中途半端にはできないと思いました。それからは毎日、親子で地道にやってきました」
その日、父がまず教えたのはジャブでも、ストレートでもなく、ステップワークだった。構えたところから左足を一歩踏み出し、次いで右足も前へ。次は後ろへ。その動作を繰り返した。その次はガードを教えた。
「僕はスパーで眼の下を骨折したことがあります。ボクサーとして打ち合いは好きです。でも、勝つには打たせずに打つしかない。この矛盾を追求していくには、ディフェンスから地道にやるしかないんです」