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まさにイチローの時代だった「平成」。
彼はいつ国民的大スターになったか。
posted2019/03/25 18:10
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph by
AP/AFLO
平成プロ野球の扉を開いた男が、平成の終わりとともにユニフォームを脱いだ――。
イチローの引退試合を見ながら、そんなことを考えた。1994年(平成6年)、鈴木一朗から“イチロー”へと登録名を変更したハタチそこそこの若者が振り子打法で210安打を放ち、翌'95年には野茂英雄がメジャーリーグでトルネード旋風を起こした。彼らは巨人ではなく、パ・リーグから生まれたスーパースターである。
まさに昭和のプロ野球が終わり、新時代の球界が始まる象徴でもあった。
「イチローが初めて首位打者を獲った'94年のこと覚えてる? あと5試合を残して3割8分9厘3毛。バースの日本記録を超えていたんだ。残り試合に出場しなければそのまま日本新記録。みんなそうしてるし、仰木監督も出なくていいって言ったのに、イチローは残り5試合全部出て3割8分5厘で終わったんだ。その年からファンになった」
2001年4月に公開された映画『走れ! イチロー』の中での、あるファンの台詞である。
劇中、当時のオリックス本拠地・グリーンスタジアム神戸の様子をじっくり見ることができる。仰木彬監督を始め、藤井康雄、谷佳知、田口壮といった現役選手たちもちょい役で出演しているが、スタンドには空席が目立つ。
イチローの凄さに“慣れて”いた。
19年前の2000年10月13日、グリーンスタジアム神戸のペナント本拠最終試合となる西武戦で、プロ9年目の背番号51は9回にライト守備に就き2万6000人のオリックスファンにお別れ。前日にポスティングシステムを利用しての来季メジャー挑戦を表明しており、球史に残る送別ゲームだったが3万5000人ほども収容できる本拠地は満員にならなかった。
今となっては驚きだが、3年連続MVPも7年連続首位打者も当たり前……みんないつの間にかイチローの凄さに慣れてしまっていたのだろう。
気がつけば、200安打を達成して“がんばろうKOBE”の象徴だった頃は明るい野球少年のイメージが、数字を積み重ねるごとにやがてクールな安打製造機へ。
'97年の216打席連続無三振の日本新記録達成時は、マスコミに対し「僕は数字でやってるんじゃない」と淡々と語り、年俸は当時としては破格の5億円にまで達し、遠征時は新幹線のチームメイトとは別行動で飛行機移動をしたり。思えば、'90年代後半に限って言えば、背番号51は孤高のスターだったとも言える存在になっていたのである。