ぶら野球BACK NUMBER
まさにイチローの時代だった「平成」。
彼はいつ国民的大スターになったか。
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph byAP/AFLO
posted2019/03/25 18:10
イチローがNPBやMLBを越えて、世界に発信したWBCという大会。野球を通して、イチローを通して、日本がひとつになった。
マリナーズ快進撃の中心に我らの51番が!
それが2000年11月19日のシアトル・マリナーズ移籍会見では、ユニフォームを身に付け無邪気に一回転してポーズを決めてみせた。渡米1年目から毎試合「1番ライト」で起用されると、242安打を放ち、強肩レーザービームをぶっ放し、首位打者や盗塁王に加えMVPを獲得する大活躍。この年のマリナーズはシーズン116勝を上げ、ぶっちぎりの地区優勝を果たしている。その強いチームの中心で躍動するのは我らが背番号51!
球界再編前、オリックス時代のプレーはテレビ中継も少なく、スポーツニュースのダイジェスト映像で紹介されるだけだったのが、マリナーズに移籍した途端、連夜NHKのトップニュースで報道される環境の激変ぶり。
投手とは違い野手は基本的に毎日試合に出る。野茂英雄や佐々木主浩とはまた別のベクトルで、イチローは海の向こうの大リーグを日本の野球ファンにも身近なものにしてくれた。NPBが生み出した最高の天才バッターがMLBを日本に広めたわけだ。
そして、もうひとつイチローのイメージを変えたのが「WBC」である。
WBCはイチローが盛り上げてくれた大会。
2006年3月3日、その2年前にメジャー年間最多安打記録を更新した絶頂期のイチローも参加した第1回WBC、日本代表初戦の中国戦(東京ドーム)はわずか観衆1万5869人だった。当初はこれだけ注目度の低かったイベントも、あのイチローが声を出し先頭に立って懸命にプレーすることで、試合を重ねるごとにチームメイトだけじゃなく、見ているファンもその熱に乗せられる。
初優勝を飾った第1回大会はもちろん、2009年の第2回大会決勝の韓国戦で放ったタイムリーは、先日のNHK『サンデースポーツ2020』の“プロが選んだ平成の名場面”で第1位に選出。
「自分は小学生で、学校のテレビは普段使えないんですけど、先生がつけさせてくれて超盛り上がったのを今でも覚えてます」
オリックスの山本由伸('98年8月生まれ)は番組内でそうコメントしていたが、ロサンゼルスのドジャー・スタジアムで行われた決勝戦の日本vs.韓国は、日本では平日昼間にもかかわらず、テレビ視聴率は最高で45.6%まで跳ね上がり、世の中を熱狂の渦に巻き込んだ。