フランス・フットボール通信BACK NUMBER
ペレ、ベッケンバウアーの上に君臨。
米国で輝いたキナーリャの思い出。
text by
ロベルト・ノタリアニRoberto Notarianni
photograph byL'Equipe
posted2019/03/18 10:30
キナーリャの栄光に包まれた米国サッカー人生……8年間で、254試合242得点、4回のリーグ優勝という記録を残した。
ラツィオの「爆弾の時代」。
7年間在籍する間、セリエB降格を経験する一方で、1974年にはクラブ史上初となるセリエA制覇も成し遂げた。その間に、人生に多大な影響を与えたふたりの監督と巡り合った。ファンカルロス・ロレンソとトマーゾ・マエストレリである。
1971年に就任したマエストレリは、才能に溢れたチームを構築した。スペクタクルなスタイルと卓越した心理マネジメントにより、ラツィオは「クレイジーなチーム」(キナーリャ)となった。
それぞれの選手が特異な武器を持ち、情熱に駆られてプレーする姿は、「爆弾の時代」と言われテロと爆破事件が多発していた当時の世情と完全にシンクロしていた。選手たちはロッカールームで殴り合うことも、練習の場でやりあうことも頻繁にあったが、試合では常に一体となって全力で相手を倒しにかかった。そのラツィオのリーダーがジョルジョーネだった。
セリエAで全盛期を迎えていたキナーリャ。
1m86cm、85㎏のフィジカルを全面に出したプレースタイル。破壊力を秘めた右足と爆発的なドリブルで、相手ディフェンスを引き裂く姿はまさに草原を疾走するバイソンで、公式戦246試合で122ゴールをあげた。
スクデットを獲得した'74年には得点王(24得点)にも輝いた。コスモスからオファーを受けた'75年の彼は、セリエAのトッププレイヤーであった。
「当時のイタリアで最も高給取りだったし、チームメイトとも親密だった。とりわけリベロのピノ(ジュゼッペ)・ウィルソンは、インテルナポリ時代からのチームメイトだったし、マエストレリ監督のことは第二の父親のように思っていた」とキナーリャは当時を振り返る。
「だが状況は徐々に厳しくなっていた。ラツィオの成功を喜ばない他チームのティフォジたちが、アウェーゲームで僕に罵声を浴びせるようになったんだ」