フランス・フットボール通信BACK NUMBER
ペレ、ベッケンバウアーの上に君臨。
米国で輝いたキナーリャの思い出。
posted2019/03/18 10:30
text by
ロベルト・ノタリアニRoberto Notarianni
photograph by
L'Equipe
ジョルジョ・キナーリャという選手をご存じだろうか?
1970年代半ばまでラツィオで活躍し、ラツィオが1973~74年シーズンにセリエA初優勝を果たしたときの立役者である。だが、大きな体躯を生かした屈強なストライカーであったキナーリャが、世界的に有名になったのはラツィオではなくニューヨーク・コスモスにおいてだった。北米サッカーリーグ(NASL)のスター軍団コスモスにあって、キナーリャの存在はペレやフランツ・ベッケンバウアー以上に輝いていた。なぜそんなことが可能だったのか?
『フランス・フットボール』誌は、1月29日発売号から「冒険者たち」という10回続きの連載を始めている。第1回は第2次世界大戦中にイギリスに捕虜として捕らえられ、戦後は1964年までマンチェスター・シティのゴールキーパーとして活躍し、2005年にはFAの殿堂入りを果たしたベルト・トラウトマンで、第2回目がキナーリャである(ちなみに第3回はラモス瑠偉)。ロベルト・ノタリアニ記者が、キナーリャの波乱万丈の生涯を辿る。
監修:田村修一
熱狂的なファンに追われたスター選手。
激しい性格とアグレッシブなスタイル――ジョルジョ・キナーリャは選手としての絶頂期に栄光に包まれたラツィオを離れ、ニューヨーク・コスモスと北米サッカーリーグ(NASL)の新たな伝説となるべく大西洋を渡ったのだった。
彼はいつもゴールに一直線に襲いかかっていく選手だった。だが……「このとき」だけは切れ味鋭いフェイントを見せた。それはコスモス移籍を知った数百人の“ティフォジ(熱狂的サッカーファン)”たちがフィウミチノ空港(ローマの代表的な空港)へと向かい、彼が「永遠の都」を離れるのを阻止しようとしているという情報が入ったときだった。
キナーリャは、急きょ行き先をチアンピーノ空港(ローマの短距離便空港)へと変えてそこからまずジェノバに行き、さらにパリに移動してエールフランス便でニューヨークへと飛んだのだった。