フランス・フットボール通信BACK NUMBER
ペレ、ベッケンバウアーの上に君臨。
米国で輝いたキナーリャの思い出。
text by
ロベルト・ノタリアニRoberto Notarianni
photograph byL'Equipe
posted2019/03/18 10:30
キナーリャの栄光に包まれた米国サッカー人生……8年間で、254試合242得点、4回のリーグ優勝という記録を残した。
まるで亡命するように米国へ渡った。
当時のキナーリャは、ラツィオの英雄でありカルチョを代表する大スターだった。そのキナーリャが、スターの座を捨ててまでニューヨークに行く決意をしたのだ。
ティフォジの失望は大きかった。
彼らにとって“ジョルジョーネ(偉大なジョルジョの意味)”はいち選手以上の存在――ひとつのスタイルでありまた情熱の体現者であり、類まれな戦士であった。
クラブのイコンであるキナーリャが、まるで亡命するかのようにアメリカに去っていく。それが何を意味するかは、“ロングジョン(キナーリャの別の愛称)”自身が最も良く分かっていた。
貧しい家からセリエAのスター選手へ。
1947年1月24日、トスカナ地方のカッラーラに生まれたキナーリャは、製鉄所に働く父の仕事の関係で、9歳のとき家族とともにウェールズに移住した。
父親の収入は十分とはいえず生活は慎ましかった。
その後、父は料理人に転身し、やがてカーディフに自身のレストランを開いた。ジョルジョはそこで洗い場や接客の手伝いをした。学校での彼は、スポーツにしか興味を示さなかった。
そのころから元気で逞しく、最初はラグビーに夢中だったがすぐにサッカーにとりつかれた。スウォンジーの下部テストに合格しトップデビューも果たしたものの、クラブは彼にさほど関心を示さず、19歳のときに家族でイタリアに戻ったのだった。
最初のクラブはセリエCのUSマッセーゼだった。続く2シーズンは同じくセリエCのインテルナポリ。ここで2年間に26得点をあげて1969年夏にセリエAのラツィオ移籍を果たした。
ラツィオで彼は天国と地獄の両方を味わった。