フランス・フットボール通信BACK NUMBER

ペレ、ベッケンバウアーの上に君臨。
米国で輝いたキナーリャの思い出。 

text by

ロベルト・ノタリアニ

ロベルト・ノタリアニRoberto Notarianni

PROFILE

photograph byL'Equipe

posted2019/03/18 10:30

ペレ、ベッケンバウアーの上に君臨。米国で輝いたキナーリャの思い出。<Number Web> photograph by L'Equipe

キナーリャの栄光に包まれた米国サッカー人生……8年間で、254試合242得点、4回のリーグ優勝という記録を残した。

サッカー不毛の地、アメリカ。

 妻のコニー・エルジオーネはイタリア系アメリカ人であり、すでに子供たちとともにニューヨーク近郊に居を構えていた。'76年、29歳になったキナーリャは、家族の待つアメリカに向かいコスモスの一員となった。

 コスモスを所有するのは、ワーナー・ブラザースのオーナーでもあったスティーブ・ロスだった。コスモスとNASLに投資を惜しまなかったロスは、アメリカにサッカー新時代を築くためにサントスを引退していたキング・ペレを'75年に獲得した。ペレこそはNASL最初にして最大のスーパースターであり、サッカー不毛の地といわれたアメリカに降り立った宣教師でもあった。

 だが、コスモスが絶頂期を迎えるには他のスターたちの到着を待たねばならなかった。その最初がキナーリャだった。

 キナーリャとともにコスモスは、'77年、'78年、'80年、'82年と4度のNASL制覇を成し遂げている。

 フランツ・ベッケンバウアーはじめカルロス・アルベルト、ヨハン・ニースケンス、ブラジスラフ・ボギチェビッチ、アンドラニク・エスカンダリアン、フリオセサル・ロメロ、ロベルト・カバニャス、ジョモ・ソノ……。キラ星のごとく輝くスター軍団にあって、ボスとして君臨したのはペレでもベッケンバウアーでもないキナーリャであった。

世界中のセレブがNYでサッカーを観戦。

 在籍した7年間に254の公式戦に出場したキナーリャは、242得点をあげたうえ94のアシストを記録している。5度の得点王を獲得し、とりわけ'80年はレギュラーシーズンとプレーオフで50得点17アシストを記録した。

「ジョルジョはアメリカのサッカーに壮大さと情熱を持ち込んだ」とかつてのチームメイトであるシェップ・メッシングは語っている。

 短気で自己中心的なキナーリャは、行く手を阻むものをすべて破壊し尽くし、たとえ相手がキング・ペレであろうとやり合うことを厭わなかった。

 1970年代末はNASLの絶頂期であった。あらゆる記録を書き換えて、ジャイアンツ・スタジアムは世界中のセレブリティの社交場となったのだった。ミック・ジャガー、シルベスター・スタローンからヘンリー・キッシンジャーまで、あらゆる世界の要人・著名人がコスモスのスターたちを見るために集まった。

【次ページ】 米国サッカーバブルの終焉。

BACK 1 2 3 4 5 NEXT
ジョルジョ・キナーリャ
ラツィオ

海外サッカーの前後の記事

ページトップ