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「大谷翔平がそうだろ。これがプロだよ」セルジオ越後が6年前に語っていた“日本サッカーに辛口である理由”
posted2021/07/28 11:01
text by
武智幸徳Yukinori Takechi
photograph by
Toshiya Kondo
〈初出:2015年3月19日発売号「〈来日から43年を経て〉セルジオ越後『僕が辛口である理由』」/肩書などはすべて当時〉
なぜ、セルジオ越後はいつも毒舌を吐くのか。'72年の来日以来、サッカー界の発展を考え続ける日系ブラジル人解説者の本音と、願いとは。
1972年に日本にやって来て「本当に驚きだった」
日本風にいうと終戦の直前、1945年7月28日に生まれたセルジオ越後が日本サッカーリーグの藤和不動産(後のフジタ。現湘南ベルマーレ)にやって来たのは1972年のことである。
日本リーグ初のプロ経験者として、ブラジル仕込みの華麗なテクニックを披露する日系2世に日本のファンは度肝を抜かれた。一方、セルジオが日本に来て最初に受けた衝撃はサッカーのチームがなくなるという出来事だった。
「僕が日本に来たとき、日本リーグは8チーム。それが翌年にトヨタと田辺製薬が入って10に増えた。でも結局、いろいろな会社がサッカーから手を引いて」
ブラジルではサッカーは同好の士が集まるクラブでやるもの。仲間がいる限りクラブはなくならない。日本ではプレーする仲間がいても会社の都合で廃部や解散に追い込まれる。チーム、ひいてはスポーツの存否が社会や社会を構成する一人一人の人間の思いではなく、会社の事情に左右されるということが「日本のサッカー文化とかスポーツ文化について何も知らなかったから本当に驚きだった」。
何がブラジルと違うのか。ある時、日本サッカー協会の事務局を訪ねて腑に落ちた。
「すごい建物だ、さすがサッカー協会だなと思ったら、岸記念体育会館(東京・渋谷)で。日本のアマチュア競技団体の本部のほとんどが詰めているビルだった」
サッカー協会はそこに小さな部屋を借りる店子で、体協を監督するのが文部省(現文科省)だということも知った。
「そのとき思ったの。学校行事を運営するのが日本のスポーツ団体の主な仕事なんだって。その競技を自由に発展させる権利を競技団体は持ってないんだって」
3シーズンで選手生活に別れを告げた後は身を粉にしてサッカーの普及に努めた。
セルジオが許せない「日本サッカーの補欠問題」
「さわやかサッカー教室」と銘打ち、'78年から2002年まで全国津々浦々を巡る中で、触れ合った子供の数は60万人を超えるとされる。そこから多くのJリーガーが誕生したが、セルジオを喜ばせているのは、出身Jリーガーの数ではない。「かつての子供たちがJリーグのスタンドを埋めていること」が誇りだ。古稀が目前の今は、日本のスポーツ界の弱点と盲点を厳しく指摘する「辛口」の語り部を自任する。