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「大谷翔平がそうだろ。これがプロだよ」セルジオ越後が6年前に語っていた“日本サッカーに辛口である理由”
text by
武智幸徳Yukinori Takechi
photograph byToshiya Kondo
posted2021/07/28 11:01
6年前のインタビューで、「辛口批評をする理由」を明かしていたセルジオ越後氏
例えば、セルジオが許し難いものとしてずっと戦い続ける「補欠」の問題。
「日本に来て43年になるけど、僕は日本のサッカー人口は増えてないと思っているのね。登録人口が増えただけで」
セルジオ流解釈ではサッカー人口と協会に登録された人口は違う。前者は純粋に定期的に試合を楽しむ人の数のこと。いくら部員(登録人口)が増えても、一握りのレギュラー以外は補欠としてスタンドに陣取り、声援に声を嗄らしているようではサッカー人口にカウントできない。
「スタンドに座らせるより、彼らにも相手を見つけて試合をさせないと」
先進国の中でも異常な速さで少子高齢化が進む日本。スポーツを強くする土壌が痩せていくのではないか。そんな心配の声が聞こえる。セルジオにいわせれば、ちゃんちゃらおかしいことになる。
「補欠」という形で可能性を秘めた子供たちを塩漬けにしておきながら「子供が減った」「タレントがいない」とはどういうことか。自分たちの足下や手元にいる子供たちを本当に活かしているといえるのか。
「体罰より補欠のほうが差別的な言葉だし存在だと思うよ」
「そもそも部費を取っているのに試合はさせないってどういうこと? (一般の社会で)子供はいっぱいいるのに(その数に応じた)学校をつくらないで授業を受けられない“教育の補欠”をつくったらどうなるの?」
教育を受ける権利の侵害として大変な騒ぎになるだろう。しかし、スポーツではそれが許される。なぜ、スポーツはそんな扱いを受けなければならないのか。
おそらく、日本で問題になるのは場所の不足。放課後の校庭はあらゆる部活動の部員で芋の子を洗うような状況。限られたスペースと時間を効率的に使うために補欠は校庭の隅へ追いやられる。時に、球拾いを続けた下積みの日々が美談になることも。
「なぜ、日本では補欠をほめるの。信じられないよ。僕は体罰より補欠のほうが差別的な言葉だし存在だと思うよ。スポーツはみんなにプレーできる権利を与えない限り、やる意味はないんです」
スポーツが文化になっている国とそうでない国の差
セルジオは講演に招かれると「みなさんも時々、ガイジンになれば?」と聴き手に訴える。「そうなれば少しは自分が言っていることが理解してもらえる」からだ。