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地震の日、日本ハムの選手たちは……。
被災の現実と向き合い、生まれたもの。 

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高山通史

高山通史Michifumi Takayama

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photograph byKyodo News

posted2018/09/28 11:15

地震の日、日本ハムの選手たちは……。被災の現実と向き合い、生まれたもの。<Number Web> photograph by Kyodo News

地震から一夜明けた9月7日、札幌から仙台へと私服姿で移動する清宮ら日本ハムの選手たち。子供たちのサインの求めにも応じていた。

栄養ある食材は子供に、親は菓子パン。

 同日に仙台へと移動する予定だったため、食料も残りわずかという状況だった。合宿所を管理する職員が、手を尽くして一定量を確保はできたが、ライフラインは危機的だった。

 この世界に身を置いてから恵まれていると感じていたプロ野球球団でも、自然の猛威の前では無力だった。そして、特別ではなかったのである。真っ向から、全員が現実と、それを打破するために向き合ったのだ。

 地震の当日は、会社から出勤を自粛するようにとの通達があった。札幌市内の大動脈の1つ、国道36号線の信号機は消灯。きっと生活用品を求めての行動だろう。

 それでも恐る恐る車が走っていた。交差点ではスピードを落とし、運転手はそれぞれ車内からジェスチャーなどで通過する優先順位を決めていた。以心伝心で、譲り合っていた。それでも事故は起きていたようだ。パトカー、救急車のサイレンが鳴り止むことはなかったのである。

 生きる、生かすために必死だった。札幌市内に住居を置くある選手は、お腹をすかせた子供たち、家族を思い、食料を分けてもらうために片道30分ほどの道のりを、合宿所まで車を走らせたという。栄養のある食材は子供たちに与え、その選手と夫人は質素な菓子パンを詰め込んだという。「俺らは別にいい。子供が心配だったから」

カードゲームや怪談話で夜を乗り越えた。

 合宿所内で生活する選手たちも、いつもとは違う一面を見せていたという。常に団体行動をしているだけに、プライベートは1人1人が思い思いに過ごしていることも多い。

 ただこの時ばかりは、大半が同じスペースに集っていたという。テレビ、インターネットなどが遮断されていたこともあるが、同時刻に食事をして団らん。懐中電灯数本のかすかな明かりを頼りに、カードゲームや怪談話などで一夜を、乗り越えたと聞いた。

 明けて9月7日。午前9時に、自宅住まいの選手も含めて合宿所に集合した。前日に不可能だった仙台への移動手段は、その時点では未定。出発できるように準備だけをして、公共交通機関の状況を確認して、遠征の可否を判断すると伝達されていた。待機時間のメドがないため、私服を許されていた。通常の移動時はスーツだが、少しでも負担を軽減する措置だった。

【次ページ】 仙台へ出発するバスの周りに20人ほどのファン。

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