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鳥取・須藤大輔監督が貫く「俺流」。
初の師弟対決と終わらぬ“感想戦”。
text by
渡辺功Isao Watanabe
photograph byJ.LEAGUE
posted2018/09/28 08:00
Jリーグクラブの監督という狭き門を異例の形でくぐった須藤大輔。この千載一遇の機会を失う手はない。
須藤監督が過ごした10年間の現役生活。
試合後のスタジアムの廊下では、移動のバスが出発する寸前まで将棋の感想戦のように、その日のゲーム内容と互いの采配を振り返るふたりの姿があった。
神奈川県出身の41歳。桐光学園高の同級生に鈴木勝大(桐光学園監督)、酒井良(町田ゼルビアジュニアユースコーチ)、1年後輩には中村俊輔(ジュビロ磐田)らがいたが、3年時の高校選手権は全国大会1回戦敗退。
進学した東海大学は前年に関東リーグ2部から降格しており、結局4年間を神奈川県リーグで過ごすことになる。当然プロからの誘いはなく、みずからセレクション受験に奔走。一時は就職して働きながらサッカーをすることも考えたが、J2昇格直後の水戸ホーリーホック入団になんとか漕ぎ着ける。
すると2年目に、ヘディングの強さ、最前線での身体を張ったプレーを武器に10ゴールをあげて翌年湘南に移籍。その後、甲府で初めてJ1に昇格する。そこでの活躍が認められ、'08年にはヴィッセル神戸へとステップアップしていくのだが、腰痛や故障に悩まされ、満足な活躍はできなかった。
そして'10年、33歳のときに当時東海社会人リーグだった藤枝MYFCで、10年間の現役生活を終えることになる。
得点は多いが、失点も多い鳥取。
「言い方は悪いかもしれないけど、僕のサッカー人生はすべて我流だったので。監督業もまずは自分流でやろうかなと。もちろん最初は、本当にそれでいいのか迷いもありました。だけど自分はJリーグのコーチ経験もないので、どういうのが監督像なのか、近くで見て学んだこともありません。
俺は俺でしかないし、俺以上のことはできませんから。須藤大輔には須藤大輔しか出せないので。いまは自分の色を出して。足りないモノは、あとからどんどん直していこうと。そういう方向に転換しました」
爆発的な得点力の反面、失点数も少なくない。素早い攻守の切り替えを求めていることはうかがえたが、カウンターを仕掛けている場面でバランスを崩したり、レオナルド、フェルナンジーニョの両ブラジル人選手が、ポジションに戻らず歩いている場面もある。開幕前にクラブは「勝ち点50、得点50、失点30」を目標に掲げたが、失点はすでに32を数える。
「攻撃の時間が長くなれば、守備をする時間が短くなる、という理念からスタートしたので。まずは前から奪いに行く。攻撃をしている間に守備のバランスも整える。奪われた瞬間に奪いに行く。そこまでは来ました。じゃあ、今度は奪いに行って外されたときに、どう守るのか。今日はもし外されたなら、1回引こうと言っていたんですが……。そこは次のステップで、いまから積み上げていくところですね」