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球数問題は高校どころか少年野球も。
投げすぎは「将来性の先食い」に。

posted2018/08/31 07:00

 
球数問題は高校どころか少年野球も。投げすぎは「将来性の先食い」に。<Number Web> photograph by Hideki Sugiyama

金足農フィーバーを呼んだ吉田輝星のピッチング。今後のキャリアに影響が出ないことを祈るばかりだ。

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広尾晃

広尾晃Kou Hiroo

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Hideki Sugiyama

 今夏の甲子園ほど、選手の健康面への懸念が取りざたされた大会はなかっただろう。気象庁が「災害級」と表現した酷暑の中、金足農・吉田輝星が1回戦から決勝までで、881球という投球数を記録した。彼の存在が活発な議論に拍車をかけたのは間違いないところだ。

 しかし「球数制限」の問題は何がポイントで、どこに問題があるのか、今ひとつはっきりしない。ここでは高校野球の「投球数」について振り返りつつ問題点を整理し、論点を明確にしたいと思う。

 高校野球でメディカルチェックが入るようになったのは、1991年夏の沖縄水産のエース、大野倫の負傷がきっかけだった。イチローと同じ学年の大野倫は世代屈指の好投手だったが、監督の「お前と心中する」と言う言葉に押されて、地方大会から決勝戦まで投げぬいた。

 甲子園では773球を投げたが、決勝戦後、右ひじの剥離骨折が明らかに。大野倫はこの時点で投手を断念することとなった。当時の高野連の牧野直隆会長はこれを問題視し、甲子園大会前の投手の検診を導入するように指示した。

今治西・藤井は将来を守られた。

 1993年に行われた予備的な検診では、多くの投手の肩や肘に炎症や疲労が見られた。そこで高野連は投手の健康管理に関する通達を出し、指導者が投手の肩、肘のケアをするように支持した。

 そのかいあって1994年の本検診からは多くの投手の肩、肘の状態が改善し、ドクターストップがかかるケースはほとんどなくなった。

 また地方大会でも、大会前に医師の検診を受けることが一般的になった。

 1995年、今治西・藤井秀悟はセンバツ準々決勝で左ひじ内側側副靭帯を損傷して降板した。この夏の愛媛県大会ではドクターストップがかかったため、投げることはなかった。

 藤井は世代屈指の好投手であり、将来が嘱望されていた。指導者も本人も、将来のことを考えて投げることを断念したのだ。その後藤井は早稲田大に進み、ヤクルトなどで83勝を挙げ、最多勝も獲得した。高校の時点での賢明な判断が、その後の藤井の将来を守ったと言えるだろう。

【次ページ】 “甲子園後”を懸念する医師も。

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