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内川も昔なら重圧を感じなかった?
2000本安打はいつ「打者の勲章」に。
 

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広尾晃

広尾晃Kou Hiroo

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posted2018/05/21 11:00

内川も昔なら重圧を感じなかった?2000本安打はいつ「打者の勲章」に。<Number Web> photograph by Kyodo News

あらゆる記録が、内川聖一の突出度を物語っている。その勲章の中に、2000本安打も加わった。

王貞治は2000本の感想を聞かれても答えず。

 しかし以後、2000本安打の報道の扱いがぐっと小さくなるのだ。

 6人目の広瀬叔功は1972年7月1日北九州市営小倉球場の西鉄戦、5回、東尾修から中前打して達成。新聞にはコメントはなく、雑誌にこんなコメントが載っただけ。

「ゲームに負けたので複雑な気持ちだ。勝てると思ったんだが。昭和41、2年頃、右手の腱鞘炎で苦しみ、野球を続けられるかというほど不安な時期があったが、良くのりこえたと思う」

 しかし7人目の張本勲(1972年8月19日平和台球場の西鉄戦、4回表に東尾修から左前打)、8人目の王貞治(1974年8月4日、甲子園球場の阪神戦、6回表に古沢憲司から右前打)は雑誌も含めてコメントが見つけられなかった。

 張本、王はNPBの安打、本塁打記録保持者であり、ともに働き盛り。2000本安打は通過点に過ぎず、さして感慨はなかったのかもしれない。

 王は記者から2000本安打への感想を求められたが、それよりも敵地甲子園で負けたことが悔しくて「(最後の併殺打は)山本和行のフォークにやられた」とだけ答えたという。

 余談だが、東尾修は野村克也、広瀬叔功、張本勲の3人に2000本安打目の安打を打たれている。これは最多記録。

2000本が打者の勲章になったのは名球界以後。

 そもそも、この時期までの打者にとって2000本安打は「最終目標」という認識はなかった。

 実は川上哲治に次ぐ2人目の2000本安打は、飯田徳治のはずだった。南海では野村克也の前の4番打者、国鉄に移籍後も安打数を重ね、1963年には1978安打まで迫っていたが、あっさりとこの年限りで引退。

 また張本勲と東映で同僚だった毒島章一も1971年オフの時点で1977安打。あと23本だった。本人に意欲はあったようだが、当時の東映監督田宮謙次郎から「これだけ打てば、2000本打ったも同然だよ」と言われ、コーチ就任を受諾したという。

 2000本安打が「打者の勲章」になったのは、1978年「プロ野球名球会」ができてからだ。

 昭和生まれで、プロ野球通算200勝、2000本安打以上を記録した選手のみが会員になれる一種の「エグゼクティブ・クラブ」だ。

 発足時の打者の会員は、江藤慎一、榎本喜八、王貞治、高木守道、土井正博、長嶋茂雄、野村克也、張本勲、広瀬叔功、山内一弘の10人。ちなみに大正生まれの川上哲治は入っていない。

 そろいのブレザーを着て、チャリティイベントやゴルフコンペをする様子はメディアで大きく報じられた。

【次ページ】 プレッシャーを感じるようになったのも名球界以後。

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