“ユース教授”のサッカージャーナルBACK NUMBER
高3の時に「メッシの背番号は僕が」。
ハリルJの新星・中島翔哉の青き炎。
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph byTakahito Ando
posted2018/03/27 07:00
6年前、東京Vユース時代の中島翔哉。当時も今も変わらないのは、その夢の大きさとひたむきな姿勢だ。
プロデビューしてから……不遇をかこつ。
この2つの言葉の間の期間、中島は間違いなく不遇のときを過ごしていた。
東京で生まれ育った中島は東京ヴェルディ(J2)の下部組織で学んでいたが、早くも高3の時に2種登録されてトップデビューを飾っている。翌年、正式にトップチーム昇格を果たすが思うように出番は巡って来なかった。
出場機会を求めて2014年にはFC東京に完全移籍するも、すぐに、当時J2だったカターレ富山に期限付き移籍となっている。
同年8月にはFC東京に復帰するが、やはり思うように出場機会を得られず、2015年にはU-22Jリーグ選抜の一員として、2016年にはFC東京U-23の一員としてJ3でのプレーを強いられることが多くなっていた。
前述した2016年の時のコメントは、まさに主戦場がJ3となっていた苦しい時期のものだったのだ。
逆境も含めて「自己鍛錬の場」。
当時は公言していた自分の夢とかけ離れて行く一方の現実だったはずだが……彼が語る夢の言葉には高校時代と変化がまったくなかった。
「今、(FC東京U-23の選手として)J3中心で僕がプレーしていて、もしかすると周りの人たちは僕の目標との大きなギャップを言うかもしれませんが……僕はどんなに苦しい環境であっても、チームの勝利を求めることはもちろん、1人のサッカー選手として、自分の理想に近づくためのトレーニング、自己鍛錬の場として捉えていますから。
だからこそ、毎日少しでも上手くなりたいと思っているし、足りないところを補おうと必死で練習しているんです。
J1で出られないのは、単純に僕に足りないところがあるからです。その欠けている点を補いながらも、自分のプレースタイルである積極的にシュートを打ちにいく姿勢や、こちらからどんどん仕掛けていく姿勢を消すこと無く、磨いていきたいと思っています」
この2016年の時の言葉は、ありきたりな謙虚さをアピールする発言では無かったと記憶している。取材に対して、その場を取り繕うための適当な言葉でもなかったはずだ。
この言葉そのままが彼の本質であり、実際にそうやって彼は強くなっていったのだから。