Jをめぐる冒険BACK NUMBER
森保Jの重点項目はトライと吸収力。
東京五輪へ向けた初速は順風満帆。
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph byGetty Images
posted2017/12/25 10:30
FWの旗手をはじめとして多くの選手が東京五輪世代ということもあり、期待も予算も例年以上の森保ジャパン。メキシコ五輪以来のメダルに手は届くか。
代表に生き残った選手は「もちろん、何人かいます」。
選手たちの野心とギラギラ感――。
それを指揮官が評価したのは、東京五輪をめぐるサバイバルを勝ち抜く意欲と、U-20ワールドカップ組へのライバル心を、確かに感じ取ったからだろう。
このチームから1月のU-23アジア選手権に連れていく選手は何人かいるのか――そう訊ねると、森保監督は「もちろん、何人かいます」と答えた。当初は2、3人と考えられていたが、その口調や表情を見る限り、もう少し多いかもしれない。
森保ジャパンの初陣は、1勝1分(PK戦負け)1敗の準優勝に終わったが、森保監督にとってその価値が、成績だけで測れないところにあるのは間違いない。
ただし厳しいことを言えば、選手たちにとっては、勝たなければならない大会だった。ここで優勝できるかどうかが、その後のサッカー人生を大きく変える可能性があったからだ。
ロンドン五輪の時を考えれば、本当は優勝したかった。
このチームと似た立ち位置にいたのが、'12年のロンドン五輪出場を目指した関塚ジャパンだ。初陣となった'10年アジア大会がJリーグ開催期間中に行われたため、ベストメンバーを招集できず、Jリーグで出場機会に恵まれていない選手と大学生を中心に臨むことになった。ところがあれよあれよと勝ち上がり、金メダルを獲得するのだ。
指揮官にとって初陣で結果を残したメンバーに強い信頼が芽生えたのだろう。この大会で活躍した山口蛍、鈴木大輔、山村和也、 東慶悟、永井謙佑らは、その後の中心メンバーになっていく。
その点で、優勝を逃したことの意味を理解していたひとりが、神谷だった。
3試合中2試合でキャプテンマークを巻き、初戦のタイ戦で1得点、決勝で1得点1アシストと、個人としてしっかりと結果を残したが、セレモニーの際は終始険しい表情のままだった。記念撮影のあとには森保監督同様、即座にメダルを外し、ミックスゾーンでも悔しさを強烈に発していた。