サッカー日本代表「キャップ1」の男たちBACK NUMBER
“川崎山脈”から日本代表、高校教師へ。
代表1キャップ、箕輪義信の人生。
text by
吉崎エイジーニョ“Eijinho”Yoshizaki
photograph by“Eijinho”Yoshizaki
posted2017/11/10 11:00
赴任一年目の菅高校は高校選手権予選で早期敗退。じっくり指導に取り組める来年以降、結果は変わるか?
「パスポート、準備しといて」
'05年のシーズン中、川崎フロンターレのセンターバックとして活躍していた箕輪義信は練習後に不意に強化担当から告げられた。
「パスポート、準備しといて」
「(代表の)リストに入っているみたいだから」
聞くと、この年の8月に韓国で開催される東アジア選手権の候補に入っているのだという。ジーコ監督時代のことだ。
申し訳なさ半分、どうしても行ってみたい気持ち半分――そんな感情が湧き起こった。
「当時、『川崎山脈』と呼んでいただいていた3バックの一角としてプレーしていました。寺田周平さんと伊藤宏樹、そして僕。僕は3番手だと思っていたんです。代表に行くなら、先の2人が行くべきだと」
2人はオールマイティなプレーができていた、と思っている。しかし高さが売りだった箕輪は、スピード系の選手に時折弱点を見せていた。
「その半面、ストロングポイントを見ていただいたのかな、と。高校時代にサッカー部の監督から教えられたものなんです。『高さだけは誰にも負けるな』と。そこを磨くことを考えてきたんです」
代表初招集チャンスの直後、不意の病が箕輪を襲う。
国内組にとって、'06年ワールドカップ出場を窺うのならほぼラストチャンスと言える機会だった。
現在と同じく、国際Aマッチウィークに開催される大会ではないため、海外組の招集が不可能だったのだ。さらに箕輪の耳には「中澤佑二のバックアップを探している」という話も入っていた。
しかし正式な招集を待つことなく、箕輪の初代表は潰えてしまう。
ある朝、起きたら、自分もまったく状況の理解できないことがおきていた。
「右耳がまったく聞こえないんです。枕から頭を起こして、アラームを聞いてみたけど、右側だけ全く聞こえない。妻に話しかけてもらっても、聞こえない。すぐにチームのスタッフに連絡しました」
病院では、こう告げられた。
突発性難聴。
箕輪を苦しめたのは、その治療法だった。禁止薬物成分の入っているステロイド系の治療薬を2週間以内に用いなければ、回復しない可能性がある、といわれた。
「Jリーグなら事前に使用目的を明らかにし、申請すれば問題なく出場できる、ということだった。しかし国際大会ではその確証はないと言われて」
29歳当時になる年のことだ。