サッカー日本代表「キャップ1」の男たちBACK NUMBER
“川崎山脈”から日本代表、高校教師へ。
代表1キャップ、箕輪義信の人生。
text by
吉崎エイジーニョ“Eijinho”Yoshizaki
photograph by“Eijinho”Yoshizaki
posted2017/11/10 11:00
赴任一年目の菅高校は高校選手権予選で早期敗退。じっくり指導に取り組める来年以降、結果は変わるか?
「日本代表になりたいんです。J2ですけど」
仙台大を卒業後、当時最強チームだったジュビロ磐田に「今のお前に興味はないが、磐田で成長してくれ」と口説かれて入団した。しかしレベルについていけず、「練習が怖い」という日々が続いた。週末ごとに磐田から地元川崎に戻り、友人とのフットサルに混ぜてもらった。ストレス解消のためだ。加えて、そこで磐田で教わったことを試すしかなかった。
'00年、シーズン途中に「出場機会を得たい」と自ら川崎フロンターレへの移籍を志願。J2降格が決定的な状況に「なぜ?」と言われたが、むしろ落ちるから行くんだ、と決めた。
この時から現在EXILEのトレーナーでもある吉田輝幸氏の下で肉体改造に取り組んだ。当時は珍しいパーソナルトレーナーをつけてのトレーニングだった。
「日本代表になりたいんです。J2ですけど」と最初に宣言した。当初は「そうなんですか」と少し笑われたが、吉田氏はその必死さにほだされるようにハードなトレーニングを課した。高校時代までは地域選抜チームに入る程度の存在だったが、ただひたすら「外国人選手にも負けない強いフィジカル、高さを身につける」ことだけを考えた。
そうやって得た、初めての日本代表のチャンス。しかし、箕輪は周囲のすすめもあり、治療を決断した。つまり、日本代表は辞退することを。
「片耳の聴力は失ってもいい。それくらいの覚悟がありました。入れるかも、となるとどうしてもその世界を観てみたかったんです」
「なかでもよくしてくれたのが、川口能活さんでした」
その年の10月、ラトビアに着くと、海外組が多い中に自分がポツリ……という状況だった。
実は、箕輪は再び日本代表に招集される機会を得ていたのだ。
ステロイド治療薬の件は「協会の方が解決してくださり、細かいことは知らない」。いっぽうで当時の代表遠征とJリーグのオールスターゲーム「JOMOオールスターサッカー(JOMOカップ)」の日程が重なり、国内組でそこに選ばれたメンバーが遠征に参加できないというめぐり合わせがあった。
チームが自分を迎えてくれる雰囲気は、とても温かかった。皆がミノさん、と呼んでくれた。
なにせ当時29才。'08年に寺田周平に更新される前までは、Jリーグ発足後最高齢の代表初招集選手だったのだ。過去に一度も年代別代表に選ばれたこともない。
もともといた選手たちも気を遣う部分があったのではないかと感じていた。
「そんななかでもよくしてくれたのが、川口能活さんでした。
当時、同じ国内メーカーのスパイクを履いていたんですよ。代表チームでは多数派ではなかったので、『おう、ミノ』みたいな感じで。食事の時、散歩の時、つねに一緒にいるという感じでしたね」
欧州遠征の初戦、ラトビア戦(10月8日、2-2)では出番がなかった。
4日後のウクライナ戦で出番があるのかどうか、ジーコから直接話はなかった。ただ前日会見で恒例となっていたスタメン発表に自分の名前はなかった。