ぶら野球BACK NUMBER
“最も有名なスーパースターの息子”
長嶋一茂の壮絶な野球人生を読む。
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph byMakoto Kenmizaki
posted2017/10/04 11:00
ヤクルト入団直後の長嶋一茂。入団前から、その圧倒的な筋力やスター性について、多くのマスコミを賑わせていた。
バブル真っ只中で最も注目されたプロ野球選手。
もちろん世の中は背番号3の真新しいユニフォームを着た長嶋ジュニアフィーバーに沸く。
当時、父親は浪人生活中。世間もいわば“ナガシマロス”状態だ。
なにせ初めてのユマ・キャンプ時には、テレビ朝日の人気番組『ニュースステーション』にて「長嶋一茂物語」というワンコーナーが連日放送されるほどだった。大げさではなく、バブル真っ只中の日本で最も注目されていたプロ野球選手と言っても過言ではない。
この頃は本人も自信満々で、母からの「お願いしても二軍キャンプからスタートしなさい」なんて苦言もスルー。自分は超一流になって当たり前の選手と4月の巨人戦でガリクソンからプロ初本塁打をかっ飛ばした際も、先輩の荒木大輔から記念球を手渡されながら、すぐに紛失してしまう。
「どうせ俺は、年間五十、六十本のホームランを打つようになる。そうすればホームランボールなんていくらでも貯まるから」と。
実際に一茂は1年目に206打席で4本塁打を放っている。これは例えば、同じく大卒内野手の小久保裕紀(ダイエー)は1年目に191打席で6本だったことを考えると、大卒スラッガーとしては上々の滑り出しとも言えるだろう。
だが、プロ3年目に運命を変える出会いがあった。あの野村克也がヤクルト監督に就任したのである。
一茂が怒っていたのは野村監督より、コーチ陣だった。
上司とそりが合わない。
恐らく、サラリーマン転職理由の上位にランキングされるであろうこの問題に、多くのプロ野球選手も悩まされる。なにせ一茂も「あの頃は毎日のように、こいつらをぶん殴ってユニフォームを脱いでやると思いながら生きていた気がする」とまで書き記しているのだ。
とは言っても、マスコミに不仲を報じられていた野村監督ではなく、その監督のご機嫌取りで陰湿なイジメみたいなことを続けるコーチ陣に対しての怒りの数々なのである。
このままここで野球を続けていたらダメになる。偉大な父親の「日本できっちり野球をやるべき」という反対を押し切り、失意の一茂はアメリカ野球留学へ救いを求めることになる。