ぶら野球BACK NUMBER
“最も有名なスーパースターの息子”
長嶋一茂の壮絶な野球人生を読む。
posted2017/10/04 11:00
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph by
Makoto Kenmizaki
もしも自分の父親が長嶋茂雄だったら?
パパは戦後日本を象徴する国民的スーパースター。もし自分がミスターの息子ならば、野球とはまったく別の世界で勝負したと思う。だって、しんどいから。何をやっても偉大な父と比較され、七光りと騒がれる。しかも、社長の長男が会社を継ぐのとは違い、常に人々の好奇の目に晒されマスコミが追いかけてくる。俺ならその環境に耐える自信はない。
だが、長嶋一茂はあえて日本中から「ナガシマジュニア」と呼ばれる世界へ飛び込んだ。
とは言っても、まず前提としてプロ野球選手になるにはドラフト会議でプロ球団から指名される実力がなければならない。その最大の難関を1位指名で突破すること自体が凄い。
大物役者の子どもが芸能界に入るのとは訳が違うのだ。目の前に待ち受けるのは、どんなルーキーより厳しい茨の道。いったい一茂は何を思い野球に人生を懸けたのだろうか? 今回はぶらり書店に出かけ、そんな「日本一有名な男の息子」の野球本を読み解いてみよう。
「自分は日本一の長嶋茂雄ファン」
【『三流』(長嶋一茂著/構成・文 石川拓治/幻冬舎/2001年6月10日発行)】
「リトルリーグでは、その年巨人監督に就任した親父と同じ90番の背番号をつけさせられ、打順は三番、もちろんサードを守らされた。当時の俺としてはちっとも嬉しくない。というより、むしろ苦痛だった」
いきなり無茶苦茶な野球人生の始まり方である。
小学4年生の時に目黒クリッパーズというリトルリーグのチームに入団した9歳の一茂を、当然のように今より規制がユルかったマスコミ陣は追いかけ回す。「お父さんに何か教えてもらった?」なんて不躾に質問をされ、当然ドン引きしたチームメイトたちは離れていく。
俺はただ野球がやりたいだけなのに……。
子どもの力では、どうやっても群がる大人たちを振り払うことはできなかった。そして5年生のある日、ついに自らの意志でチームを辞める。
だが、野球を嫌いになったわけじゃない。なぜなら、一茂は「自分は日本一の長嶋茂雄ファン」を自負していたからだ。いつかまた野球をやる。普段は気を遣って父親の話を避けていた田園調布小学校の仲が良い友人たちはそう確信していたという。