ぶら野球BACK NUMBER
“最も有名なスーパースターの息子”
長嶋一茂の壮絶な野球人生を読む。
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph byMakoto Kenmizaki
posted2017/10/04 11:00
ヤクルト入団直後の長嶋一茂。入団前から、その圧倒的な筋力やスター性について、多くのマスコミを賑わせていた。
父親の巨人監督解任でリベンジを誓った少年。
リトルリーグをやめた一茂は普通の子どもとしてすくすくと育っていく。
明るい性格で周囲から慕われ、中学3年時には身長180センチに迫る勢いで、握力も80キロを超えた。そんな時、あの球界を震撼させた大事件が起きる。
1980年秋、長嶋茂雄の巨人監督解任である。
ふざけやがって……親父を切り捨てた巨人軍に無性に腹が立った。こうなったら、俺があいつらを見返してやる。そして友人達にこう宣言するわけだ。「俺、高校へ行って野球をやるから」と。
ここで怒れる一茂は驚きの行動に出る。筆箱や鞄、部屋の窓枠や廊下の壁にまで“リベンジ”とカッターナイフで彫り続けたのだ。
後年、ヤクルト時代のミーティング中にノートにマンガを描いていたとは思えない熱心さである。というのは置いといて、'81年春、立教高校に進学すると迷うことなく野球部へ。だが中学時代のブランクは大きく、プロを目指すなんて夢のまた夢という厳しい現実。練習試合をすれば「ナガシマの息子のくせに下手だな」なんて野次られる。
“サボりの天才”長嶋一茂と、夜更けの自主練。
ちきしょう今に見てろよ……と書くと熱血野球マンガのような世界観を想像するが、彼はサボりの天才とも呼ばれていた。
ジュースを買いに行く際は見つかった時に「ボールを探しにいっていた」と言い訳をするために、ポケットにボールをひとつ忍ばせてバックレる。その一方で深夜になると、絶対にプロ野球選手になると自らに言い聞かせ寮生たちが寝静まった後に夜更けまで激しい素振りを繰り返した。
2年秋には、本格的に野球を始めてわずか1年半で一茂は「4番ファースト」を任せられるまでに成長。
ギリシャ彫刻のように均整の取れた筋肉質の体躯に底知れぬパワー。荒削りだが、素材は超一級品。3年夏、チームは県予選準決勝で惜しくも敗れ甲子園出場を逃すが、部活引退後に束の間の放課後ライフを経験する。