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錦織圭の「格上」「格下」って誰だ。
テニスは、ランキング=格ではない。
posted2017/01/31 11:00
text by
井山夏生Natsuo Iyama
photograph by
AFLO
相撲の世界には「格」がある。例えば、新進気鋭の若手力士が横綱と初対戦するときに、多くのファンは、若手が横綱を倒す夢を見るが、その夢はたいてい叶わない。そういうとき勝った横綱は「まだ顔じゃないよ」と言う。
「顔」イコール「格」であり、「格」という言葉はやすやすと使ってはいけない。表現を変えるならば、「格」イコール「信用」ということだ。格下は格上の人の強さを心密かに信じている。だから本当に「格」が違う場合は、まず間違いは起こらない。相撲に限らずスポーツの世界は「格」がもの言う世界だと思う。
ところが、この「格」という言葉を形容詞のように安易に使っているメディアが多い。テニス報道が特にひどい気がする。テニスの記事を丹念に拾っている方なら「またか!」とうんざりしているのではないだろうか?
錦織圭の活躍によって、新聞スポーツ面でのテニス記事のスペースが大きくなったことは本当に喜ばしいことだが、その内容が残念でならない。錦織を大きく見せようとする傾向が過ぎる。全豪でも錦織には「世界5位の」という形容詞が必ずつく。「ランキング」=「格」の扱いなのだ。
ジョコビッチ、マレー、フェデラー、ナダルは特別。
テニスをよく見ている人なら、トップ10以内の選手がランキング20位の選手に負けることがしばしばあることを知っている。とはいえ、その20位の選手も50位の選手に必ず勝つわけでもない。つまり、テニスをランキングだけで評価することはできないということだ。5位の錦織と20位の選手を「格」では表わせないのである。
今の男子テニス界を相撲世界の番付に例えれば、マリーとジョコビッチが「横綱」で、ワウリンカが「大関」、錦織とラオニッチが「関脇」、その脇を固める「小結」がベテランのツォンガ、デルポトロ、若手のティエムやキリオスというところではないだろうか。
そしてフェデラーとナダルは、休場していた「横綱」といったところか。実際、2人の力が衰えていないのは、全豪での戦いぶりを見れば一目瞭然だろう。ランキング17位のフェデラーは5位の錦織を当然のように下し、同9位のナダルも3位のラオニッチを一蹴している。
これまでの実績を含めて「横綱」と表現した4強の「格」は特別なのだ。