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ブラッターFIFA会長の野望と屈辱。
プラティニはなぜ彼を裏切ったのか?
posted2016/02/24 18:00
text by
田村修一Shuichi Tamura
photograph by
Getty Images
ゼップ・ブラッターとミシェル・プラティニ。もともとは盟友関係にあったふたりは、どうして対立するようになったのか。
「すべてはプラティニ個人の攻撃からはじまった。それが政治の問題となり、もはや個人では収拾がつかなくなった」とブラッターは言う。
どういうことか。かたや大会組織委員長、かたやFIFA事務局長として1998年フランスワールドカップを協力して成功させたふたりの蜜月関係は、プラティニがUEFA会長に初当選した2007年まで続いた。当初は不利と見られたプラティニが、現職のレナート・ヨハンソンを破った選挙をブラッターは陰ながら支援し、'98年FIFA会長選挙で自らがサポートを受けた借りを返したのだった。
その後はFIFA会長とUEFA会長という立場が、ふたりの関係を微妙なものにしていく。
「私が会長に就任する遥か以前から、UEFAはアンチFIFAウィルスに冒されている」とブラッターは述べている。
ふたりの性格面での軋轢が徐々に大きくなっていった。
また、常にスポットライトを浴びていないと気が済まない性格のブラッターと、現役時代から天性のカリスマであり中心にいることが当たり前のプラティニの、性格面での軋轢もあった。主役はひとりで十分。FIFAで長期安定政権を維持したいブラッターにとっては、プラティニの圧倒的な知名度は、自らの立場を脅かす大きな脅威であった。
他方、プラティニは、UEFAで積極的な改革に着手し、サッカー政治家としての自信を深めていった。
ビデオ判定の導入(ブラッター)と5人レフリー制(プラティニ)、EURO広域開催の実現(プラティニ)と反対(ブラッター)など、ふたりは具体的な場面で意見の違いを露わにした。
はじめて感情的なしこりをふたりの間に残したのが、2008年のことであった。