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ブラッターFIFA会長の野望と屈辱。
プラティニはなぜ彼を裏切ったのか?
text by
田村修一Shuichi Tamura
photograph byGetty Images
posted2016/02/24 18:00
FIFAの倫理委員会の発表を受けて記者会見に応じたブラッター前FIFA会長。
ふたりはまるで喧嘩するガキ大将同士のよう。
ブラッターは言う。
「スイスとオーストリアで共同開催されたEUROで、私はUEFAから屈辱的な扱いを受けた。私個人だけでなく、私が代表するもの(FIFA)への敬意がまったく感じられなかった。以来、私はUEFAのイベントに一度も出席していない」
とはいえ、それでもふたりはまだ近しい関係にあった。仲がいいから喧嘩する。ふたりをよく知るものは、当時こう語っている。
「彼らはまるで放課後の中学校の校庭で、どちらが遊び場を占領するか争っているガキ大将のようだ」と。
それを修復不可能なものにしたのが、'10年12月2日にFIFA理事会でおこなわれた、'18年と'22年のワールドカップ開催国決定をめぐる投票だった。このときは事前の話し合いにより、'18年はロシア、'22年はアメリカ開催で暗黙の合意ができていたとブラッターは言う。
「経済的な理由から、'18年は初の東欧開催となるロシアで、'22年は北米で唯一最大の経済大国であるアメリカで開催する意義があった。政治的に見ても2大大国での連続開催だ」
さらに'26年には躍進著しい中国でも開催し、その間にパレスチナとイスラエルの親善試合を実現して世界平和に貢献、ノーベル平和賞を受賞するというのがブラッターの思い描いたシナリオだった。
それを土壇場でプラティニがぶち壊した。
サルコジ大統領がプラティニに囁いたこととは。
理事会投票の10日前、ニコラ・サルコジ大統領(当時)に呼ばれエリゼ宮(大統領官邸)の昼食会に出向いたプラティニは、タミン・ビン・ハマド・アルタニ・カタール皇太子(当時。現首長)と同席する。その場で決まったのが、累積赤字が著しかったパリ・サンジェルマンのカタール基金への売却と、アルジャジーラによるスポーツ専門チャンネル「ビーイン・スポーツ」の設立だった。
PSGの熱烈なサポーターで、フランスがUEFA理事会でトルコを7対6の僅差で破り、EURO2016の開催権を獲得した際に招致活動を直接支援したサルコジは、プラティニに「これがフランスの国益だ」と囁いた。「カタールに投票しろ」とは一言も言われなかったが、無言のプレッシャーは感じたとプラティニはいう。彼がブラッターに電話をかけ、アメリカではなくカタールに投票すると通告したのは、その3日後のことだった。
「そこからすべてが狂い始めた」とブラッターは告白する。