ソチ五輪EXPRESSBACK NUMBER
羽生結弦の金メダルは歴史の上に。
仙台人として、そして日本男子として。
text by
野口美惠Yoshie Noguchi
photograph bySunao Noto/JMPA
posted2014/02/16 12:30
金メダルを手に微笑む羽生結弦。会見ではライバル、コーチ、先人たちへの感謝を語った。
「僕は姉についていってスケートを始めることが出来た」
「仙台に生まれ、姉が先にスケートを始めたからこそ、僕は姉についていって自然の流れでスケートを始めることが出来た」
佐藤、佐野、羽生の姉へと繋がった細い糸が、羽生をスケートの世界へと導いた。1999年、羽生が4歳の時だった。
一方、日本スケート連盟は五輪のメダル獲得に向けて、'92年夏から本格的な選手強化に取り組んでいた。日本は選手層が薄いために、伊藤みどりのようなトップ選手が出ても1人だけに期待が集まり、五輪のような大舞台では重圧がかかりすぎる。そこで全国から小学生を集めて有望選手を発掘する合宿をスタート。選抜選手を幼少期から国際大会などに参加させ、試合経験を積ませるようになった。
その一期生が、仙台出身の荒川静香。その後、男子は、高橋、織田、小塚、そしてもちろん羽生もその一人として発掘された。
同じ仙台出身、荒川静香の金メダル獲得で芽生えた夢。
ところがスケートを始めた頃の羽生は、喘息持ちの虚弱体質。今以上に身体が細く、同年代の男子に比べて筋力がない。新人発掘で潜在能力は評価されていたものの、同期の選手が小学生の頃から3回転を跳べるようになっても、羽生は跳べなかった。
「なんで僕だけ跳べないんだろう。悔しい。僕も3回転を跳びたい。みんなに勝ちたい」。毎日そう考えていた。
勝ち気な性格と、スケートへの情熱が実を結び始めたのは中学生のとき。少しずつ筋力がつき、3回転を1つ跳べるようになると、あっという間に5種類の3回転ジャンプを身につけた。
'06年のトリノ五輪で、同じく仙台出身の荒川が金メダルを獲得すると、羽生の心に、ひそかな夢が芽生えた。
「日本女子初の金が荒川さんで、日本男子初めての金メダルが僕で、2人とも宮城県出身、というのが夢。僕が生まれ育った町だからこそ、仙台への思いは強い」