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バレンティンが超えようとする、
王貞治“55本の奇跡”を再検証。 

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小関順二

小関順二Junji Koseki

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photograph byNIKKAN SPORTS

posted2013/09/04 10:31

バレンティンが超えようとする、王貞治“55本の奇跡”を再検証。<Number Web> photograph by NIKKAN SPORTS

1964年9月23日、後楽園球場で行われた巨人対大洋の28回戦。5回裏、王貞治は大洋の佐々木吉郎投手から右越えにホームランを放ち、シーズン55本塁打の日本新記録を達成した。

2位に大差をつけて史上最多四球の王。

 王の記録が破られそうになったとき、「外国人にホームラン記録を破らせないように四球攻めが多くなる」とまことしやかに囁かれてきたものだが、王自身が通算2390四球(2位は落合博満の1475)、114死球(歴代13位)と歩かされ続けたことを忘れるわけにはいかない。四死球は強打者の宿命で、バレンティン、ローズ、カブレラなど外国人の専売特許ではない、ということを野球ファンは知っておく必要がある。

 今回、改めて王貞治のことを知りたくて、墨田区総合体育館内にある常設展示コーナー「王貞治のふるさと墨田」や福岡ヤフオク!ドーム内にある「王貞治ベースボールミュージアム」を訪れ、さらに荒川博と中学時代の王が運命的な出会いをした隅田公園今戸グラウンドにも足を伸ばし、数々の“偶然(運命的な出会いや出来事)”が王を野球の道に導いたことを知った。

 王が本所中学2年だった'54(昭和29)年12月、隅田公園今戸グラウンドで試合をしていると紀州犬を連れた毎日オリオンズの現役選手、荒川が土手からグラウンドに降りて監督と話し始めたという。荒川は左投げの王が右で打っているのを見て、「僕の感じでは左で打ったほうがいい。左で打ってごらんよ」とアドバイスし、王は言われるまま左で打つと初球を二塁打にした。

父親は、貞治を電気技師にさせようと考えていた。

 王たちのチームが隅田公園今戸グラウンドで試合をしたのはこの日1回きりである。いつもなら錦糸町駅前に広がる錦糸公園内のグラウンドを使うのだが、その日はたまたま使用できず、仕方なく隅田川を渡って今戸まできたという。その最初で最後の日に、紀州犬を連れた荒川が王の試合を見て、左打ちをアドバイスしたのである。

 王が中学2年だと知り荒川は驚き、自らの母校・早稲田実業(以下早実)に出向いて王を迎え入れるよう進言する。王の父親は兄の鉄城を医師、弟の貞治を電気技師にさせようと考え、鉄城は親の思惑通り慶應大学の医学部を出て医師になっている。王も理工系の進学率が高い都立墨田川高校を受験し、早実への進学話は辞退するつもりだったという。しかし、王は墨田川高校の受験に失敗してしまう。ちなみに、墨田川高校には当時野球部がなかったので、そのまま進学していたらその後の“世界の王”は誕生していない。

【次ページ】 運命に導かれ、“世界の王”となった男。

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