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<ナンバーノンフィクション> 草の根からの王国復活。~体操・田中和仁、佑典、理恵の三兄妹を育てた、体育教師の情熱~
text by
浅沢英Ei Asazawa
photograph byToshiya Kondo
posted2012/07/21 08:00
土日は、着地練習用設備の充実した滋賀まで出稽古に。
和歌山オレンジは、後に女子部が和歌山ジュニアとして独立し、2つのクラブは、多くのボランティアコーチを得て活況を呈していくことになる。そのジュニア育成の中心軸に常にいた田中と伊熊は、当然のことながら大きな負荷を抱え込むことになった。
伊熊は「夏休みが終わってみれば、3日しか和歌山にいなかったことがありました」と笑う。西日本ジュニア、インターハイ、近畿ジュニア、全日本ジュニア、全国中学校体育大会、国体予選。彼らにとって夏休みは、まさに繁忙期だった。
朝、高校に出勤して、帰宅は早くて夜の10時。
そんな中で、育ってきた選手の中に岸本拓也という少年がいた。
「拓也は練習の虫です。体操が、心底好きなんでしょうね」と田中は言う。
高校は伊熊の勤務先、県立和歌山工業高校だった。岸本は「もう一本。もう一本」と言いながら、練習を止めようとしない選手だった。高校の体操部の指導者として岸本をあずかった3年間、伊熊の生活は、さらに過酷になった。岸本が体育館での練習を終えるのは、早くて夜の11時だった。
学校が休みとなる土日もまた、貴重な練習の時間だった。土曜日の朝、田中と伊熊はコーチたちと一緒に岸本や和歌山オレンジの選手を連れて滋賀県栗東の体育館へ出かけた。早朝の高速道路を走っても片道2時間近い道のりである。ビジネスホテルで泊まって日曜日の夜に帰ってくる。滋賀への出稽古は、着地練習用の設備であるピットを使って技を習得させるためだった。ピットのある体育館が和歌山にはなかった。
県職員が駆け込んで知らせた、教え子の世界選手権代表入り。
県庁所在地である和歌山市のなかほど、JRと南海電鉄の2つの駅を結ぶ幹線道路沿いに、田中と伊熊が今も週に1度の体操教室を指導する和歌山県立体育館がある。練習が始まるのは夕方5時。老朽化が進む体育館に冷暖房設備はない。夏場、開け放ったドアから流れ込んでくる夜気には、微かに潮の香りがまじる。
この体育館に、隣接する事務所から県の職員が駆け込んできたことがあった。岸本を和歌山から東京へ送り出して3年が過ぎた1997年、初夏のことである。
その日、群馬県前橋市でNHK杯が開催されていた。
高校3年生の夏、全日本ジュニアで準優勝に輝いた岸本は田中の母校、日本大学へ進み、この大会に出場していた。8月にスイスのローザンヌで世界選手権が開催されることになっていて、NHK杯は代表メンバーを決める最終選考会を兼ねていた。
風を入れるために、その日も体育館のドアは開け放たれていたのだろうか。
駆け込んできた県の職員の「岸本が代表に入ったぞ!」という声に、体育館がざわめいた。
「ようやった!」