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<ナンバーノンフィクション> 草の根からの王国復活。~体操・田中和仁、佑典、理恵の三兄妹を育てた、体育教師の情熱~
text by
浅沢英Ei Asazawa
photograph byToshiya Kondo
posted2012/07/21 08:00
ふたりはいよいよジュニア育成の道へ――。
伊熊の日常に、ちょっとした変化が現れたのは2年後である。体力開発センターの指導の中で上手くなった子どもたちを集めてセンターの中に〈特別体操クラブ〉が結成された。伊熊は俄然、張り切った。平日だけの練習で飽き足らず、土日に練習できる体育館を探していたとき、北高に勤務していた田中の顔が思い浮かんだ。
田中にとってはそれが、ジュニア育成への入り口となった。
巡り合わせとは奇妙なものである。
この頃、田中は東京に置き去りにしてきた宿題を思い出したように〈スポーツ医科学〉の研究に取組み始めていた。独学で論文を読み漁り、県内の整形外科のドクターらが参加する研修会にも足を運んだ。当時、ジュニア期の選手に筋力トレーニングはタブーとされていた。だが田中は独学の研究の中で、自分の体重を負荷にしたトレーニングは許容されると考えた。北高の体育館で伊熊が連れてきた子どもたちを前に、指導論を語り合うようになったのは自然のなりゆきだった。
2年後、特別体操クラブの中からジュニア競技会に出場できそうな子どもが育ってきた。伊熊は女子を指導していた同僚の体育指導員と相談してジュニアクラブを作ることに決めた。競技会に出るためには、クラブとしての登録が必要だった。
子どもたちを集めてこう訊いた。
「和歌山って言うたら、何や?」
「みかん!」
一斉に同じ答えが返って来た。
クラブの名前は和歌山オレンジ体操クラブと言った。
「いい名前だな」と伊熊は思った。
ほどなく、細々と続けていた競技生活から身を引いた。
和歌山のジュニア育成に骨を埋める覚悟。
クラブの設立から3年後に、田中もまた〈引退〉している。和歌山オレンジの名が、ジュニア競技会で少しずつ認知されていくようになったのは、この頃のことである。近畿ジュニア大会で上位に入賞する選手が、ぽつぽつと出始めていた。
北高の体育館での練習の合間だったのだろうか。あるいは酒席でのことだったのか。田中は伊熊に「自分たちがやってきたことは間違いではなかった」と言ったことがある。田中の言葉に伊熊もうなずいた。
彼らはこのときすでに、和歌山のジュニア育成に骨を埋めると覚悟を決めていたのだろう。伊熊が和歌山に来てから10年後、特別体操クラブが廃止されることになったとき、田中と伊熊は自分たちがボランティアで指導を引き受けることを条件に県に存続を嘆願した。
伊熊は体力開発センターの指導員から県立高校の教員になった。特別体操クラブは、県立体育館での週に1度の伊熊と田中の体操教室として引き継がれることになる。体操教室─和歌山オレンジ─高校の体操部。草の根のジュニア育成の道筋が整ったのはこのときだった。