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<ナンバーノンフィクション> 草の根からの王国復活。~体操・田中和仁、佑典、理恵の三兄妹を育てた、体育教師の情熱~
text by
浅沢英Ei Asazawa
photograph byToshiya Kondo
posted2012/07/21 08:00
名門出身ながら、五輪には届かなかった田中と伊熊。
かつて林業で栄えた和歌山は、太平洋に囲まれた山と川の国である。県北部を流れる紀ノ川の河口に開けた平地に県庁所在地の和歌山市はある。この土地で田中と伊熊が出会ったのは1975年の春だった。
「どうでもいいことは全く気にならないんだけど、どうでもよくないことは追求しないと気がすまない」と、自らを語る田中は学究肌の教師である。伊熊は信念を曲げない一徹さを、小学校の先生のような温厚な笑顔に包んだ人物である。彼らはともに大学を出て和歌山に来た。
鹿児島生まれ福岡育ちの田中は東京の名門、日本大学の出身である。4年生のときには副主将を務めたチームの中心選手だったが、五輪の栄光には届かなかった。
「本当は、大学へ残って研究をしたかったんです。スポーツ医科学に興味がありました。でも、大学に残れるのは1人だけだと言われましてね。同学年のキャプテンは、モントリオール五輪で活躍する五十嵐久人でしたから。僕には席がまわって来なかった」
伊熊と出会ったのは和歌山へ来て3年目の春だった。
福岡生まれ大阪育ちの伊熊は、多くの五輪メダリストを輩出した大阪の名門、清風高校から中京大学へと進んだ選手である。だが伊熊もまた五輪の栄光とは無縁だった。競技を続けながら働けるという話に飛びついて和歌山に来た。田中より3歳年下の伊熊は、大学を出たばかりの22歳だった。
九州出身の田中と伊熊は出会ってまもなく意気投合。
最初に顔を合わせたのは県の練習会である。彼らは仕事のかたわら競技生活を細々と続ける〈現役〉の体操選手でもあった。
「真っすぐな人間だな」と田中は伊熊に好感を持った。同じ九州人の血だと思うと、いっそう親しみが湧いた。
言葉をかわすようになって意気投合した。
ときどき一緒に居酒屋で酒を飲むようになり、いつしか田中は伊熊を「熊さん」と呼ぶようになっていた。
和歌山へ来た当初、伊熊は県の体力開発センターで行なわれていた体操教室の指導員だった。
「子どもたちを教えることに何となく興味はありました」
と伊熊は言う。だが伊熊は、出席の印鑑をもらうために集まって来た子どもたちに「おいやん、判子押して」と言われて落ち込むことになる。
「和歌山では、大人の男の人はみんな、おいやん、なんです。それにしても、まだ大学を出たばっかりなのに、おいやんか、と」
自分が老けてみられたこともそうだが、そもそも子どもたちにとって伊熊は指導者ではなかった。センターの体操教室は、本格的なジュニア育成が目的のクラブではなかった。