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<ナンバーノンフィクション> 草の根からの王国復活。~体操・田中和仁、佑典、理恵の三兄妹を育てた、体育教師の情熱~ 

text by

浅沢英

浅沢英Ei Asazawa

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photograph byToshiya Kondo

posted2012/07/21 08:00

<ナンバーノンフィクション> 草の根からの王国復活。~体操・田中和仁、佑典、理恵の三兄妹を育てた、体育教師の情熱~<Number Web> photograph by Toshiya Kondo

田中の胸に巣食っていた不安の正体。

 静かに拳を握りしめたのだったか、それとも声に出して叫んだのだったか。伊熊は、朗報を耳にして田中と喜び合ったときの感情を、今も鮮明に覚えている。

 だが、県の職員が体育館に飛び込んできたことも、伊熊たちと喜び合ったことも、その日の出来事は田中の記憶からは抜け落ちてしまっている。

 伊熊との温度差があったわけではない。

 当時を思い返すときに田中の胸に湧き起こってくるのは、喜びとは別の「すっきりとしない」感情なのである。

 手ごたえはあるのに、確信がない。

 田中の胸に巣食っていたのは、言わばそんな不安だった。

 岸本が世界選手権の代表になったとき田中の長男、和仁は小学校6年生だった。和仁は、ジュニア競技会で目だった成績を残していたわけではなかったが、田中たちは「体操の基礎をちゃんと形作ってきた手ごたえはあった」と言う。だが、手ごたえを裏付ける論拠は、田中たちにはなかった。

ジュニア育成に邁進する間に失われた体操ニッポンの“輝き”。

 50歳の節目を前にしていたこの頃のことを、田中はこんな言葉で振り返る。

「自分たちのジュニア指導が、手詰まりになっていると考えていたわけではないんです。でも今思うと、もやもやとしたものをずっと抱えていた気がします」

 もっと端的に言うならば、このままで世界の舞台でメダルが取れる選手を育てることができるのかどうか、田中はその確信が持てなかったのである。

 ローザンヌ世界選手権で、日本男子体操は団体メダルに手が届かなかった。岸本もまた成果を残せないまま帰国し、その後は代表入りを逃し続けていた。ローザンヌから2年後、天津世界選手権でも日本男子は団体メダルを逃している。田中と伊熊が草の根のジュニア育成に邁進してきた20年の間に、かつてオリンピック5連覇、世界選手権5連覇の偉業を成し遂げた体操ニッポンは、その輝きを失っていた。

2人のコーチが共に口にした、“ディナモ”という言葉。

 当時小学生だった理恵は、自宅ではけっして体操の話をしなかった父が、ときどき、部屋の壁をスクリーンに見立てて大型のプロジェクターで海外の選手の演技を見ていた姿を覚えている。「映し出されているのはきまって海外の選手でした」と言う理恵の記憶に残るのは、世界選手権で女子の個人総合2連覇を果たすスベトラーナ・ホルキナ、16歳で世界選手権代表となりシドニー五輪で個人総合金メダリストとなる男子体操界の星、アレクセイ・ネモフ……。彼らは旧ソ連が育てた体操界の逸材だった。子どもたちは映像の鑑賞を強いられたことはなかった。この父は、子どもたちが寝室に入っていった後も1人でスクリーンを見つめ続けていた。

 田中が北高の体育館の片隅でディナモという言葉を聞いたのは、岸本が代表入りを逃し、日本が団体メダルから見放された天津世界選手権が終わった1999年秋のことである。

 田中や伊熊とともにジュニア選手を指導していたメンバーの中に水口晴雄と尾嵜隆之というコーチがいた。

 田中のもとに相談に来た水口と尾嵜が口にしたのが、ディナモという言葉だった。

【次ページ】 凋落する日本と入れ替わりに台頭したロシア男子体操。

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