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<ナンバーノンフィクション> 草の根からの王国復活。~体操・田中和仁、佑典、理恵の三兄妹を育てた、体育教師の情熱~
text by
浅沢英Ei Asazawa
photograph byToshiya Kondo
posted2012/07/21 08:00
ディナモの指導資料のコピーを懇願したが……。
父である田中章二は、そうして自宅へ招いたアンドレイが帰った後で、ひたすらノートに向かった。酒を酌み交わしながらコマ切れに聞きとった、ロシア人コーチが語る指導の要点を「忘れないうちに」必死になってメモに残すためだった。
アンドレイがディナモの指導資料を少しずつ見せてくれるようになったのは、そうして何度か食事を重ねた後のことである。
田中は初めて資料を見たとき、「ここまでやっていたのか」とため息を吐いた。
田中が手にした資料には、目標とするオリンピックの開催年別に、どの年齢で、どの技までを習得すべきかが、一覧になって書かれてあった。
体操競技は、五輪開催ごとに小さなルール改正が行なわれる競技である。ルールが進化すれば、演技で使う技も進化させなければならない。ディナモでは、何大会も先を見据えて技の進化を予測し、体系的に指導のプランを作成していた。
「コピーをさせてほしい」
田中たちはアンドレイに懇願したが、ついに資料のコピーを許されなかった。
膨大な資料を、彼らは夢中になって暗記した。
再会したアンドレイの目の前で銅メダルを手にした長男の和仁。
「アンドレイさんに教えてもらったのは、これまで父や伊熊先生に教えられて来たことと同じことなんです。ただ、同じ技でも身体の違う部分を意識すれば上手く行くことを教えてもらって、それが面白かった」
そう話す長男の和仁は、2度目の招聘から2年後の2003年12月、ボローニンカップの遠征メンバーに選ばれてロシアに遠征した。競技会はディナモで行なわれた。和仁は再会したアンドレイの目の前で、種目別鉄棒で銅メダルを手にした。和仁は高校3年生だった。
10代で代表入りをするのが当たり前の女子の世界で、長く低迷した理恵は、成果とは無縁だったようにも思われる。だが彼女は、こう言う。
「大学1年の冬、痛めていた左足首を手術して痛みがなくなってすべての種目の演技構成を見直しました。大学生になれば、それまで完成させた技術をいかに維持していくかが勝負です。なのに私は、そこから新しい技に取り組みました。すべてがすんなりと行ったわけではないんです。でも、やろうと思ったときに技ができたのはジュニアの時代に父や伊熊先生たちが、体操の基本をしっかりと教えてくれていたからなんです」