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“巨大宗教都市”としての東京を行く。
ご立派建築にイマドキの信心を見る。 

text by

疋田智

疋田智Satoshi Hikita

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photograph bySatoshi Hikita

posted2011/06/25 08:00

“巨大宗教都市”としての東京を行く。ご立派建築にイマドキの信心を見る。<Number Web> photograph by Satoshi Hikita

立正佼成会の大聖堂を望んでハイポーズ。とにかく圧倒的な存在感を誇る巨大建築です。一見の価値アリ!

オウム以来、日本人は宗教を拒絶するようになった。

 だって、宗教の人(どの宗教、どの宗派を問わず、だ)って実際にお会いしてみると、いつも礼儀正しいし、真面目だし、親切(少なくとも親切にみえる)だもの。

 思えば、'95年に起きた一連のオウム真理教事件が不幸だった。

 あの事件のトンデモない邪悪さ、被害の甚大さから、日本人(特に若い人)は、宗教全般に対して、拒絶反応を持つようになってしまった。

 しかしね、最初から「ダメ」「いや」と拒絶していても勿体ないと思う。というのか、いざというときに弱いと思うのだよ。

 何のことかというと、宗教ってのは、やはりどうしたって「それなりの信徒を集めるだけの魅力」を持っているわけだ。宗教的に無垢(いや無知)だったりすると、いざ接した時に、その魅力に抗えない。というのか、まったく知らない人は、逆に知ってしまうと一気に「これしかない」とハマッてしまうのだ。私はそういう若い人を数人知っている。無菌室で育ったマウスは、弱いつまらない病原菌に感染しても、それで死んでしまう、というのと同じだね。

 また一方、ある菌は確かに病原菌かもしれないが、別の菌はヨーグルトや、酒や、ペニシリンを作る、なくてはならない菌なのかもしれない、と、そういうことはある。まぎれもない事実だ。

 いずれにせよ、宗教というものは、この世に「在る」。

 そこに帰依するかしないかは、あくまで個々の自由だし、そして、他人がそれを選ぶ選ばないもまた個々の自由なのである。

 大げさに言うと、そういうことを、われわれ人類は、その歴史と叡智をかけて、勝ちとってきたのだ。

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