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巨人・堀内監督vs清原和博の不仲「球団事務所に乗り込んで…」ガラガラ空席目立つ東京ドーム、「清原コール」でファン造反…堀内巨人の“異常事態”
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中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph byJIJI PRESS
posted2025/04/27 11:02

2004、05年と巨人を指揮した堀内恒夫監督。清原和博とは不仲説が報じられた
2004年の清原は前年秋の右膝半月板手術の影響もあり、プロ19年目で初めて二軍でのキャンプインを迎えた。ペタジーニと一塁併用の起用法で、6月に通算2000安打を達成するも、死球による左手第5中手骨斜骨折もあり、わずか40試合の出場で自己ワーストタイの12本塁打に終った。37歳のベテランは、4年契約があと1年残っていたものの、シーズン終了後に球団部外者のある人物から来季構想外を告げられる。すると清原は自身の去就を確かめるため球団事務所に乗り込み、直談判という異例の行動に出るのだ。
「僕としては、そういう話は逃げることなく正々堂々と正面からして欲しかった。だから、球団事務所に乗り込んで、直談判したんです。新聞では僕が『編成権は監督にあるのか、球団にあるのか』と聞きにいったということになっていますが、本当は、なぜ球団が直接、話してくれないんだ、というのが一番の思いでした。直談判したその場で球団から『構想外』というようなことを言われ、悔しさというのもありましたが、それよりも寂しかったですね……」(告白/清原和博/文藝春秋)
自身の理解者でもあった原監督の退任により、出番が激減した清原はイラつき不貞腐れたような態度を取ることもあった。当然、若手や中堅は“番長”と呼ばれるベテランの顔色をうかがい萎縮して、ベンチの雰囲気は悪くなる。一部のファンはそんな清原の置かれた立場に同情し、批判の矛先は背番号5を起用しない堀内監督へと向かう。
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そして、2004年11月23日、東京ドームであの事件が起きるのだ――。
