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巨人・堀内監督vs清原和博の不仲「球団事務所に乗り込んで…」ガラガラ空席目立つ東京ドーム、「清原コール」でファン造反…堀内巨人の“異常事態”
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中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph byJIJI PRESS
posted2025/04/27 11:02

2004、05年と巨人を指揮した堀内恒夫監督。清原和博とは不仲説が報じられた
しかし、投手陣がチーム防御率4.50と安定感を欠き、71勝64敗3分で落合博満監督率いる首位中日と8ゲーム差の3位に終わる。25歳の若手捕手だった阿部慎之助は、当時のチーム状況をこう振り返る。
「そのときも錚々たるメンバーがいたんですけどね。そういう個々に力のあるメンバーがいたとしても、まとまりのあるチームにならなければ勝てないんだな、と痛感しました」(ジャイアンツ80年史 PART.4/ベースボール・マガジン社)
堀内監督vs清原和博「球団事務所に乗り込んで…」
2004年シーズンはオリックスと近鉄の合併報道に端を発した、球界再編騒動の真っ只中だったが、球団数削減の1リーグ制を推進する経営側の中心にいたのが巨人の渡邉恒雄オーナーである。いわば、巨人の選手たちは、12球団維持を目指す選手会側と、自チームのオーナーとの板挟み状態にあったわけだ。巨人の選手会長を務めた高橋由伸は、のちにその苦悩を明かしている。
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「冷たいって思われた部分はあったでしょうね。他のチームの選手たちとは違った視線を感じることもあったと思います。発言を求められても、言いづらいことばかりだったし……。ぼく自身、選手会の会議の中では自分なりの意見を言ってきたつもりですけど、対マスコミとなると、やっぱり言えないところがあった。ぼくに限らず、ウチの選手は大変だったでしょうね」(古田の様/金子達仁/扶桑社)
高橋が会合で決定した内容を持ち帰り、チームメイトに報告した際も同僚たちの様子はどう反応していいのか分からない微妙なものだったという。さらにこの時期の巨人は、ダグアウト内で大きな問題を抱えていた。堀内監督と、チーム随一の人気を誇る清原和博の関係悪化である。