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ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
生放送でバラされた「おまえ、平田だろ!」プロレス史に残る“珍事件”、本人が明かした全真相…なぜ平田淳嗣は、それでもマスクを脱がなかったのか?
posted2025/05/17 17:01

平田淳嗣本人が明かした、「おまえ、平田だろ!」事件の真相《全2回の後編》
text by

堀江ガンツGantz Horie
photograph by
AFLO
スーパー・ストロング・マシンこと平田淳嗣は、1978年に新日本プロレスに入団。若手時代から、前田日明、ジョージ高野らとともに将来のヘビー級レスラーとして期待されていた。転機が訪れたのは1982年。デビュー5年目にして、スターへの登竜門である海外武者修行が決まったのだ。
「若手の頃、新日本に来日した同世代のブレット・ハートやダイナマイト・キッドとすごく仲良くなって、ブレットから『おまえ、カルガリーに来いよ。親父に言っておくから』って言ってもらえたんですよ。それで俺のカルガリー行きが決まったんです」
ブレット・ハートはのちにWWE世界王者となる90年代を代表するレスラーで、カナダ・カルガリー地区のプロモーターだったスチュ・ハートの息子。そしてダイナマイト・キッドは現地の若き看板レスラーだった。その二人からの推薦ということもあり、平田のカルガリー行きはとんとん拍子で決まった。
「なんでメキシコに行かなきゃいけないんだ」
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しかし出発直前になって平田のカルガリー行きは白紙に戻り、代わりに急きょメキシコ遠征を命じられた。
「メキシコに行っていた長州さんが急きょ帰国することになって、新日本は提携していたメキシコの団体UWAに気をつかって、長州さんと背格好やファイトスタイルが似ていた自分が代わりに送られることになったんです」
メキシコから帰国した長州は82年、10・8後楽園ホールで藤波に対して「俺はおまえのかませ犬じゃないぞ!」と反旗を翻し一躍大ブレイク。その陰で平田のカルガリー行きはなくなり、82年11月から長州の代わりにメキシコに行くこととなった。真の“かませ犬”は平田だったのだ。
「あの時はクサりましたね。当時、メキシコは経済が混乱していて貨幣価値が暴落。治安は悪く水道水の質が悪いため、メキシコに行ったレスラーはみんな体重が激減して『地獄の修行先』って言われてましたから。ルチャ・リブレは俺が目指すスタイルじゃないし、自分が行きたかったカルガリーが決まっていたのに、なんでメキシコに行かなきゃいけないんだって」