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「20キロ走った直後に、もう一度20キロを…」「先輩が田んぼの水を飲んでいた」40年前の早大“箱根駅伝連覇”を生んだド根性「トレーニング秘話」
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清水岳志Takeshi Shimizu
photograph byKYODO
posted2025/01/27 11:02
![「20キロ走った直後に、もう一度20キロを…」「先輩が田んぼの水を飲んでいた」40年前の早大“箱根駅伝連覇”を生んだド根性「トレーニング秘話」<Number Web> photograph by KYODO](https://number.ismcdn.jp/mwimgs/e/5/700/img_e5a654827608fe40966a542f88ba49621460656.jpg)
1984年、実に30年ぶりとなる箱根駅伝総合優勝を果たした早大の遠藤司(3年)。その主力はいずれも瀬古利彦に憧れたメンバーたちだった
それはインターハイで勝った時とは違うイメージの勝利だった。
勉強も日々、叱咤激励されながら翌年、合格。千駄ヶ谷の中村監督の家の近くの一軒家の2階に移り住んだ。
中村に声をかけられた高校生は、ほぼ全員が瀬古に憧れを持っていた。
瀬古に憧れ…有力ランナーが続々と入部
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遠藤のさらに1つ下の世代、鹿児島南高の川越学もその一人だった。
「中学生の時に見ていて、『強いなぁ。こんな人と練習できたらいいな』と思っていました。入学してからも福岡国際のトラックで逆転するシーンを中村監督に何回もビデオを見せられましたから」
鹿児島大隅半島最南端の佐多岬出身。教師になりたくて市内に下宿して高校に通った。
高校1年の長野国体3000mで優勝。中距離が得意で2年のインターハイの1500mで決勝まで進んだ。3年の国体のサブグラウンドで中村監督に会って勧誘を受けた。しかし、川越も1年目は不合格だった。
中村監督から「近くに住め」と言われ、上京して予備校に通った。中村監督宅でたまに食事をさせてもらったが、走ることはおろそかになって、太った。
水口東高(滋賀)の田原貴之は800mと1500mで当時の高校記録を持ち、全国高校駅伝もエース区間の1区で2位。12月に千駄ヶ谷の中村監督の自宅を訪ね、受験することを報告した。年が明けて上京して、遠藤と同じエスビー食品のマネージャーのアパートに住み込んで、4年生から個人勉強を受けた。
今ではマラソン中継の解説として活躍する金哲彦も、瀬古の走りに影響を受け早稲田を選んだひとりだ。福岡国際マラソンのインパクトがすごかったと振り返る。
「宗兄弟、イカンガーを逆転したレースは強烈で、憧れましたね」
金は門司の出身。北九州は駅伝が強い企業が多く、長距離が盛んな土壌がある。小学校でも遊びで駅伝をやっていた。校内のマラソン大会や、中学のロードレースで優勝するのも自然の流れだった。
八幡大附属高では進学クラスにいたこともあって、勉強して早稲田に入ろうと決める。
教育学部体育学専修の試験は、筆記のほかに実技試験があった。金は得意種目の1500mを選んだ。記念会堂に専用のトラックを作って周回するテストで断トツのタイムを出して、合格の要因になったと話す。同じ試験は、前述の川越と田原も受けていた。
遠藤は合格してすぐ「800mは捨てろ」と言われる。中村は「中距離じゃ世界では戦えない」という常套句で高校生を口説いた。瀬古、金井をはじめ、その後の川越、田原も中距離の選手で、後に長距離へと転向させている。川越は「中距離のスピードを生かしつつ長距離に挑め」と言われた。