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「20キロ走った直後に、もう一度20キロを…」「先輩が田んぼの水を飲んでいた」40年前の早大“箱根駅伝連覇”を生んだド根性「トレーニング秘話」
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清水岳志Takeshi Shimizu
photograph byKYODO
posted2025/01/27 11:02
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1984年、実に30年ぶりとなる箱根駅伝総合優勝を果たした早大の遠藤司(3年)。その主力はいずれも瀬古利彦に憧れたメンバーたちだった
中村の言動には理不尽で、受け入れがたいものもあった。だが学生が信じてついていくようになったのは、オーラがあったからだ。金は高校生の時に中村の放っていたオーラに衝撃を受ける。早稲田を志望した高校生のセレクションが11月にあって高田馬場のビッグボックスに集まった。
「その時のオーラが半端なかった」
金はこんな人に今まで会ったことはなかったという。
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チームでは中村と瀬古で作り上げた練習メニューが完成しつつあった。金は入学早々、早稲田での最初の練習で面食らったという。
「1年生を集めろ。20分後に5000mのタイムトライアルをやる、と。いきなりテストですよね。ど根性集中力で走って、トップでした」
中村流のクラス分けが行われたわけだ。金はただ、ひたすらに走った。中村から「おまえは死に物狂いに走る」といわれた。ありがたい言葉だったという。
衝撃だった夏合宿での「20キロ+20キロ」
1年目の群馬・後閑での夏合宿でのこと。20キロのタイムトライアルを走った直後に、もう一度20キロを走れと言われた。
「40キロなんて走ったことないですから(笑)。ほんとうにフラフラだった。先輩は田んぼの水をこっそり飲んでいましたね」
地獄の40キロ。瀬古が全盛期にやっていた練習だが、大学に入ったばかりの1年生にマラソン練習をさせていたことになる。だが、効果はてき面だった。
「とてつもなくスタミナがついた。20キロ+10キロというのもあったし、究極の『追い込む練習』。中村監督の独自の練習でした」
遠藤もこの20キロタイムトライアル、20キロビルドアップの40キロ走が当時は信じられなかったという。
「普通は考えられない。いろんな人に聞きましたが『そんなことやったら、ぶっ壊れてみんないなくなっちゃうよ』って言われますね。でも、効果はあるんです。20キロがどうやったって走れるようになる。距離に対しての不安がなくなる」
20キロ+20キロを説明された比喩がいまも記憶に残っている。
「20キロを走ってもスタミナは蒸発しやすい。だからビールの瓶みたいにしっかり蓋をしておかないとダメなんだ。その蓋がビルドアップの20キロだ、と……」
一見すれば無茶苦茶なトレーニングだ。だが、当時の臙脂の選手たちは、それをプラスにかえる術があった。
「うちは他大学に比べてこんなすごい練習をしているんだ、と。自信をもてましたね」
そんな異次元の練習が、日々、積み重なっていった。そうして遠藤が3年生になった83年―84年のシーズン。いよいよ早稲田に箱根の総合優勝を狙える布陣がそろった。この年も夏の合宿では、件の20キロトライアル+ビルドアップの「連続20キロ」は決行されたが、全員が完走したという。
迎えた年始の箱根駅伝。1区に選ばれたのは、2年生になった田原だった。
<次回へつづく>
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