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中距離では「ケニア人にひっくり返っても勝てない」…瀬古利彦を育てた“奇才”中村清の教え 早大40年前の“箱根駅伝連覇”「前夜の記憶」
posted2025/01/27 11:01
text by
清水岳志Takeshi Shimizu
photograph by
AFLO
右手の人差し指はごつくて太かった。戦時中は憲兵隊に属し、常に鉄砲を抱え引金に指をかけていたからだという。
そんな命のやり取りをした者が師匠になった。
弟子は将来の日本長距離界を嘱望された19歳。中村清と瀬古利彦のことだ。
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1976年に瀬古が早稲田大学に入学するときから、約10年後の早稲田の「連覇の物語」は始まる。いや、その前年の受験失敗が“引金”になったと言えるかもしれない。
早大の“レジェンド”瀬古利彦の入学秘話
瀬古も昭和の子供たちにもれず、幼少のころは野球に興じていた。甲子園に行きたいと思っていた。ただ、陸上部の先生に大会に出てくれよ、と誘われた中学のマラソン大会でトップになる。
「野球はやればやるほどダメになってきて、陸上は何もやってないのにどんどん速くなった」
三重・四日市工ではインターハイで800m、1500mの中距離2冠を達成するなど将来を期待される存在になる。
早稲田から勧誘され、ほかの大学から進路変更をしてまで試験に臨んだが、現役では受からなかった。高校駅伝を12月まで走り、受験勉強がほとんどできなかったからだ。
「早稲田に瀬古を」と希望したのは「OBでアムステルダム五輪の三段跳び優勝の織田幹雄さんだったらしい」と瀬古は言う。
そして、不合格が責任問題となって「瀬古の面倒をみろ」という話になった。早大OBの小掛照二がプロジェクトリーダーだった南カリフォルニア大学への留学を経て、一浪後の翌年、何とか瀬古は合格を果たす。
瀬古を育て、早大競走部を強化できるのは1952年と1954年に箱根駅伝の総合優勝をもたらした中村清の再登板だろうと織田は考えていた。中村の異端ぶりを心配する一部OBの反対意見もあったが、織田の一声で中村復帰の方向性が固まる。
「試験に落ちたことは、人生の転機になった。翌年に入学できて、中村監督が復帰して」
いつもテレビでみせる表情で、瀬古が話す。