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あの米田哲也と張本勲18歳が対決“じつは酷評されていた”張本のプロ1年目「悔しさで眠れない」4歳で大ヤケドから“日本記録3085安打”達成するまで
posted2025/05/11 11:01

東映時代の張本勲(左)と山本八郎。1958年撮影
text by

岡野誠Makoto Okano
photograph by
KYODO
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近鉄パールスの監督を務めた芥田武夫は張本勲18歳について、〈力まかせにバットを振り回しているだけ〉(※8)と斬った。一方、最年長勝利投手記録を持ち、元祖・毒舌解説者の浜崎真二は独特な見方をしていた。
〈松木コーチが“張本と先輩(浪商)の山本と二人そろうと、すさまじい意気ごみで、なぐられそうな気がして気味が悪い”と言っていたが、内攻するより問題を起すぐらい元気があったほうがいい〉(※9)
4歳時に右手を大ヤケド
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「殴る」を「元気」と結び付ける時代背景はさておき、技術面では変化球に弱い点が指摘された。張本は4歳の時、右手の指を大ヤケドして自由に扱えなくなっていた。その弱点をすぐ見抜いた松木コーチは、右手だけのトスバッティングを1日300回繰り返させた。
「ハリは、猛練習に耐えられる体の強さがあったんだろうな。それに、『絶対に負けない』という強烈な闘争心も持っていた。引退後に一緒にゴルフをした時、よくわかったんだ。アイツはカートに乗らないんだよ。18ホールずっと歩く。『おい、大丈夫か』と言っても、『ワシは駆け足でいく』と譲らない。感心したよ。『ワシはお前らに負けへんぞ』という強がりの気持ちも見えたけど(笑)」(1956年から3年間東映フライヤーズに在籍し、OB会会長も務めた八名信夫)
持ち前の体力が、技術を伸ばす支えになった。大川博オーナーに期待をかけられ、松木コーチと出会い、万年Bクラスの東映だから1年目からレギュラーを狙えた。巨人や中日なら、物事がスムーズに進んだとは限らない。そして、“暴れん坊フライヤーズ”の異名を持つチームだから、自由に振る舞えた。開幕前、張本の寸評はこうだった。
〈気が強く、ほかの選手のいうことはあまり聞かない〉(※10)
張本が恐れた“ケンカ八郎”とは
高校生ながらも、唯我独尊に振る舞っていたようだ。ただ、この話には続きがある。